1号機の原子炉で高温となった燃料によって、燃料を覆うジルコニウムという金属が水蒸気と化学反応を起こし大量の水素を発生させていた。水素は原子炉から格納容器へと抜け、地上のどの物質より軽いその性質ゆえ、上へ上へと流れ、原子炉建屋最上階の5階にたまり続けていた。その充満した水素が、爆発を起こした。
免震棟も中央制御室も東京本店もまったくのノーマークの水素爆発だった。核のエネルギーが引き起こす様々な反応が、ある瞬間に、膨大な力をもって人間に襲いかかる。そのことを誰もわかっていなかった。
1号機水素爆発 縦揺れの衝撃
縦揺れの衝撃に襲われた免震棟では、みな何が起きたのかわからなかった。電源復旧の指揮にあたっていた稲垣武之(47歳)は、地震かと思ったが、これまでの余震とまったく違う揺れに戸惑っていた。今までの揺れは、建物を左右にゆらゆらと揺らすような横揺れだった。ところが、今度はまったく違うズドーンという縦揺れに見舞われたのだ。
「尋常な揺れではない」そう感じていた。
縦揺れの衝撃から4分後の午後3時40分。免震棟の誰もが信じられない光景を目の当たりにした。地元の福島中央テレビを映していた200インチのプラズマディスプレイに、建屋上部の壁が吹き飛んだ1号機の姿が唐突に映し出されていた。水色に白がちりばめられた模様で彩られた見慣れた建屋が、突然上半部だけが無機質な鉄の骨組みに入れ替わってしまった。高さ40メートルある巨大な構築物を一瞬のうちに変えて見せる大掛かりな手品を見せられているのではないか。しかし、錯覚などではなく、厳然たる事実だった。
誰もが啞然として、表情が凍りついたようになった。この映像を見て、初めて1号機が爆発したという事実がわかったのだ。吉田は、すぐに退避をかけた。稲垣は、部下たちの姿が頭に浮かんだ。1号機の隣の2号機のタービン建屋1階では、自分の部下の復旧班のメンバーやメーカー、協力会社の作業員たちが、夜を徹して電源を復旧するための作業にあたっていたのだ。無事なのか。顔から血の気が失せた。
間もなく、免震棟に、電源復旧の作業にあたっていた復旧班員や協力会社の作業員たちが一人、また一人と退避してきた。爆風の黒いほこりにまみれ、いったい誰かもわからない。現場から退避してきた車のフロントガラスは蜘蛛の巣状に割れていた。爆発で吹き飛んだ瓦礫があたって作業服に穴が開いている者もいた。消防注水の作業をしていた者も次々に戻ってきた。命を落とした者はいないのか、安否確認が続いた。腕の骨を折るなど5人がけがをしたが、幸いにも命に関わる大きなけがをした者はいなかった。