夕闇が迫る午後5時20分。1号機のタービン建屋付近で、再び消防注水の準備作業が始まった。幸いにも現場に残されていた3台の消防車はいずれも無事だった。作業の大きな妨げになったのは、あたり一面に散らばっていた瓦礫だった。瓦礫は1時間あたり30ミリシーベルトあまりの高い放射線量を帯びていた。原子炉建屋の壁が水素爆発で吹き飛んだ際に、強い放射線を帯びた瓦礫と化していたのだ。
現場では、3号機タービン建屋近くの逆洗弁ピットから1号機まで500メートルの間を、消防車3台を配置し、ホースを長々と敷設し直さなければならなかった。ホースの至る所に瓦礫が覆いかぶさっていた。その瓦礫を被ばくに注意しながら取り除き、ホースの破れた箇所を取り換えるという根気のいる作業が続いた。日が沈み、あたりが暗闇に包まれた午後7時頃までに、ようやくホースの敷設作業が終わった。
中央制御室 死を覚悟しての写真撮影
この頃、中央制御室では、原子炉の状態を確認するために必要最小限の運転員だけが残っていた。残ったのは当直長以下10人あまりだった。いずれも50代から40代の当直長や副長クラスのベテランばかりだった。部屋では、5分おきにタイマーが鳴るなか、ただ、圧力と水位のデータを読み上げていくだけだった。ベテランの当直副長が呼びかけた。
「写真を撮ろうじゃないか」
中央制御室には、作業の記録をとるために、デジタルカメラが常備されていた。
そのカメラを持ち出してきて、写真を撮ることを呼びかけたのだ。嫌がる運転員もいたが、呼びかけた当直副長は、なかば強引に写真撮影を進めていった。「原子炉の状態もわからない。頭がおかしくなりそうだった」運転員の一人はそう思っていた。
当直長は、「自分は生きて戻れない」と思っていた。
残っていた運転員の誰もが、死を覚悟していた。自分たちがここにいたという記録を残したい。写真を撮ろうと呼びかけた当直副長の胸の内には、そうした思いがあった。呼びかけに応じた運転員もその思いに気が付いていた。爆発で資料や機器が散乱する作業机を前に全面マスクを装着した運転員たちが写真におさまった。その姿はどこか所在なげにも見えた。水素爆発直後の中央制御室をとらえたこの写真は、事故後、貴重な記録として東京電力によって公表された。