学力テストが単なる調査で終わってしまうと、市場化は完成しない。評価に結果責任を組み合わせることで、初めて市場が動き出す。つまり、全国学力テストを教員評価に連動させることには、教育現場に結果責任を問うための根拠づくりとしての一面があったのだ。
新自由主義の分析と批判の先駆者でもあるデヴィッド・ハーヴェイは、次のように言っている。
新自由主義は、人間が行う全ての行動を市場の領域に持ち込もうとする。そのために、グローバル市場におけるさまざまな決定を導く情報創出のテクノロジーとデータベースを必要とするのだ。
つまり、教育 という事業の効率と効果を証拠として残すためのメカニズムの構築が公教育の市場化には不可欠であり、そのためには生徒の学力だけでなく、教員の教える能力さえも「パフォーマンス」として数値化する必要があったのだ。
新自由主義教育「改革」によって荒廃し切ったアメリカ公教育の惨状を前にした、元アメリカ教育指導カリキュラム開発連盟会長のアーサー・コスタの嘆きを思い出す。
「教育的に大事で測るのが困難だったものは、教育的に大事ではないが測定しやすいものと置き換えられてしまった。だから今、我々は、学ぶ価値のないものをどれだけ上手に教えたかを測定しているのだ」
1%の「勝ち組」目指して99%が競争する社会
「アメとムチ」の政策であるメリットペイ制度に対して各方面から批判が噴出すると、大阪市の吉村市長は「子供達の学力向上の努力をし、結果を出す教員が高く評価されるのは当然だ」と、アメの側面を強調してきた。
しかし、そもそも事の発端が、全国学力テストで大阪市が政令指定都市中、2年連続最下位だったことに対する市長の怒りだったという経緯を考えれば、それはあくまでも建前に過ぎないだろう。
いったんムチの側面に光を当てれば、このメリットペイ制度が、教員の身分保障の脆弱化を加速させるツールとなる危険性を孕むことがわかる。終身雇用資格の剥奪や正規公務員から非正規契約雇用への切り替えなど、教員の身分保障の脆弱化はもはや世界的な傾向となっている。
一つ理解しておきたいのは、市場化を目指す新自由主義政府にとって、教員など公務員の安定した雇用形態、およびそれを守る組合は邪魔な存在だということだ。新自由主義は、不安定性を肥やしにする。新自由主義的に言えば、1%の「勝ち組」を目指して99%の人間が生存競争をするのが理想的な社会のあり方なのだ。