結果責任……。このパラダイム(議論の枠組み)の外には、どのような光景が広がっているのだろうか。フィンランドの教育庁長官などを歴任したパシ・サールベルク教授(教育政策)のこんな言葉が思い出される。
「私たちがどうやって教員を評価しているかですか? 話もしませんよ。そんなことは私たちの国では関係ないのです。その代わりに、私たちは『どのように彼らをサポートできるか』を議論しますよ」
現場を信じて任せる……。教育現場に結果責任を求めるのではなく、政治に教育現場への投資責任を求める、という全く別のパラダイムがそこにはある。
たった2教科の点数で子どもの学力を評価してよいのか
子どもの学力を育てたい、頑張っている教員をちゃんと評価して欲しいという気持ちは、教育関係者であればなおさら強い。
しかし、実際には個性豊かな子どもたちと日々かかわり、数値だけでは測れない子どもの多様な知性を知っている教育関係者だからこそ、たった数教科のペーパーテストの点数に基づく安易な学力観に対する懸念も強いのだ。
そんな基準で教員を評価してよいわけがないとの反論が出るのは当然ではないだろうか。
ハーバード大学の発達心理学者、ハワード・ガードナーが多重知能理論によって「知能」の多様性を指摘したのは40年も前のことだ。それによれば、人間の知能は、言語的知能、論理・数学的知能、空間的知能、音楽的知能、身体運動的知能、対人的知能、内省的知能、博物学的知能と、少なくとも八つに分類できる(図参照)。
そのように多様性に富んだ子どもたちの知能を、たった数教科のペーパーテストで測ろうとするのはあまりにもお粗末だ。
この制度に反対する教員や教員組合が本当に守ろうとしたのは、自分たちの首などではない。極端に狭く偏った土俵での勝負を強いられる子どもたちだ。
だからこそ、「メリットペイ制度には効果がない」という批判そのものが危険なのだ。
それは、提示された貧弱な学力観に基づいた議論の枠組みを受け入れることであり、「効果がない」と言った途端に「じゃあどうやって子どもたちの成績を上げるんだ? 教員にはどうやって責任を負わせるのか?」と対案を求められ、仕組まれた議論の呪縛に自らはまっていくことになる。