その意味では、「頑張っている」教員や校長へのボーナス支給を「エサ」にして導入されたメリットペイ制度が、政府に教育現場に対する管理の強化をもたらし、「結果」を出していない教員や校長を「正当に」解雇し、最終的に教員組合の解体へと突き進んでいくことは大いに考えられる。
そうなれば教員の序列化は正当化され、公教育の枠組みの中で「アタリ」と「ハズレ」が生まれ、「公」の概念そのものが崩壊を起こす。
そして皮肉なことに、「結果が全て」のテスト教育体制の中で、教員が目先の結果、つまり生徒のテストの点数を上げようと頑張れば頑張るほど、教員は自らの専門性を失い、「使い捨て労働者」になっていくのだ。
「どんな複雑な問題にも決まって短く、単純で、間違った答えがある」
公教育に市場原理を持ち込めば諸問題が解決するというのは、まさに「短く、単純で、間違った答え」だった。
メリットペイ制度の落とし穴
大阪市のメリットペイ政策に対しては、四方八方から反対意見が噴出した。中には、教育現場におけるメリットペイ制度には効果がない、という批判も多く見られた。
しかし、この制度は「効果がない」のではない。むしろ「危険」なのだ。
アメリカを代表する知識人であるマサチューセッツ工科大学(MIT)のノーム・チョムスキー博士は、「民衆を受け身で従順にしておく賢い方法は、議論の枠組みを厳しく制限し、その枠組みの中で活発な議論を奨励することだ」と指摘する。
まさに今日、日本全国の地方自治体や学校が、文部科学省によって作られた枠組みの中で、受け身に、従順に、どうやったら全国学力テストの点数を上げられるかという議論を実に活発に交わしている。
しかし、そもそも何をもって「学力」と呼ぶのかはほとんど議論されていない。これこそが私たちが囚われている「議論の枠組み」だ。
いったん立ち止まって、全国学力テストの定義する「学力」とは何かを問い直したい。それは国語と算数(理科は3年に一度)のペーパーテストの点数ということになる。
全国学力テストの結果が出るたびに、一喜一憂する各都道府県の姿が浮き彫りになるが、たった2教科の点数で学校や生徒を評価してよいのか。私たちが真に問うべきはこの貧弱な「学力」観そのものではないか。
「プロの仕事は素人にはわからないから『プロ』なんだ」
私の恩師はそう言い切る。この言葉が物語っているのは、プロの仕事を素人でも誰でも簡単に評価できるように数値化してしまうことの愚かさだろう。数値化の過程で、経験に裏づけられたプロの直感や技は跡形なく削ぎ落とされてしまうのだから。