テレビ草創期からの生粋のテレビっ子・高橋源一郎さん。小説家としての活動の傍ら、競馬評論家としてテレビ出演も多くし、昨年は『カルテット』で印象的な役も演じました。てれびのスキマさんによる「テレビっ子」インタビュー、中編では『スポーツうるぐす』の真剣勝負、松たか子と見つめ合った思い出までを伺いました!(全3回の2回目/#1より続く)

小説家・高橋源一郎さん

どうして小説に「アラレちゃん」を登場させたか

―― 高橋さんの小説、特に初期の作品には、「アラレちゃん」や「ドラえもん」、「中島みゆき」などテレビや漫画関連のモチーフがたくさん登場します。小説の中にそういったものを引用するのはどういう発想からだったんですか? 

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高橋 小説には何でも使おうと、それに尽きるんです(笑)。少し真面目な話をすると、小説というのはそもそも詩なんかと違って、新しく生まれたジャンルなんですね。いろんな説があるんですけど、17世紀の終わりから18世紀ぐらいにロマンスとかゴシップとかいろんなものが集まって近代小説ができたと考えられています。その起源の一つが(ローレンス・)スターンの『トリストラム・シャンディ』という長編です。これはもう悪ふざけで長編を書きました、みたいな小説。小説は生まれつきそんなところがあるんです。冗談で長いのを書いちゃうみたいなところが。それは1つの考え方だという人もいるけど、僕はそれが本筋だと思っています。小説は雑食性で、近くに何か楽しそうなものがあったら食べて自分の一部にしてしまう。だから、17世紀、18世紀はテレビも漫画もないけど、テレビや漫画があったら絶対取り込んでいたはずなんです。

 

――なるほど、小説は雑食性。

高橋 もう1つ、小説は「物語を語るもの」です。この雑食性と物語性、両方あって近現代小説なんですね。ですから、難解で芸術的と言われるジェイムズ・ジョイスの作品群は20世紀小説の最高峰と言われてますけど、よく考えたらサブカルチャーに近いものから、俗語から何でもかんでも取り込んで、物語っている。だから、その時代の文化みたいなのが全部入っているというのが、小説の、正しいと言ったらおかしいですけど、ひとつのオーソドックスな形だと思うんです。とはいえ、知らないものは取り入れられないので、自分の知ってるものを中心に何でも入れていく。アラレちゃんを出したりするのは、僕の考えでは普通の発想だったんです。

デビュー当時は「まるで訳が分からない」って言われていた

―― ただ、高橋さんがデビューした当時の日本の純文学でそういうのをやっている人ってたぶんいなかったと思うんです。

高橋 いなかったですね。

 

―― その反応ってどうでしたか?

高橋 「まるで訳が分からない」って(笑)。でも、自分がやってることは間違ってないという確信がありました。今に分かるよ、と。その辺は別に、何か言われても、「この人たち、読んでないな」と思うだけでした。

 考え方としては、例えば、分野は異なるけれど、(ジャン=リュック・)ゴダールの影響は受けてると思います。ゴダールは映画の中に引用を持ち込んだんですよね。オーソドックスな映画に対して、漫画とか音楽とか言葉とか、山ほど引用してる。まさに雑食ですよ。映画って映像における小説ですからね。だから、映画以外の外にある文化的なものをどんどん吸収して出すというのがゴダールの映画なんです。それを僕は小説的だなと感じました。だから、小説を最初に書いた時はゴダールの映画を基準に考えていました。小説と映画というのは後から来た芸術ジャンルということで似てるんですよね。そういう、映像として使えるものは全部使うという考え方。だから、小説も言葉として使えるものは全部使う。遅れてきたジャンルだから「みんないただきます」っていうのでいいんじゃないのかな。