京都の皇族や貴族、また名だたる武将もこの道を通って有馬温泉を訪れていたという。阪急電鉄の前身が箕面有馬電気軌道といったのも、もとは旧有馬街道に沿って有馬温泉を目指す予定があったからだ。
ただ、有馬街道の往来が盛んだった時代には、現在の宝塚駅周辺はそれほど栄えていなかった。むしろ、少し東側(宝塚インターチェンジ付近)の小浜という地域に市街地が形成されていたようだ。
事実、宝塚市の前身・宝塚町が1951年に町制を施行するまでは、小浜村と呼ばれていた。それくらい、有馬街道沿いの小浜は賑わいのある町になっていたのだろう。
もしも明治時代に温泉が見つからなければ…
それから宝塚が中心市街地として大いに発展したのは、温泉と阪急が手がけた開発によるものだ。つまり、裏を返せば、もしも明治時代に温泉が見つからなければ、その後の命運がどうなっていたのかはわからない。
宝塚歌劇も生まれなかったかもしれないし、場合によっては箕面有馬電気軌道の名の通り、阪急電車は有馬温泉につながっていたかもしれない。およそいまのような行楽地・住宅地としての宝塚は存在しなかったに違いない。
しかし、それにしてもである。町の真ん中を川が流れ、すぐに山が迫っている地理環境。それでいて、大阪からは鉄道で30分程度という至近距離。そうした宝塚の町中に温泉があって、宝塚歌劇があって、立派なホテルも建ち並ぶ。典型的な“奥座敷”といっていい。
大都市の後背地の奥座敷は、だいたい歓楽街の要素を持っているのが常だ。特に近代以降の奥座敷は、たぶんにそうした側面を有していた。
しかし、宝塚はそうはならなかった。品格を備えたホテルや旅館が並び、少女が歌って踊る唱歌隊はただの“色モノ”ではなくあの宝塚歌劇団に昇華し、歓楽街的な要素とはほど遠い、宝塚にしかない個性を持った町ができあがったのだ。そして、結局話が戻って来てしまうが、それを築き挙げたのは、阪急電車なのである。
写真=鼠入昌史