いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。『鉄男』『六月の蛇』『野火』などで知られる塚本晋也監督もその一人だ。近年は映画やドラマで俳優としての存在感も増している塚本監督の8ミリ映画作家時代について、自身も自主映画出身監督である小中和哉氏がインタビューした好評シリーズの第7弾。(全4回の1回目/2回目に続く)
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『鉄男』(1989)で鮮烈なデビューを飾り、最近でも『野火』(2014)、『ほかげ』(2023)など話題作を作り続ける塚本晋也監督は、《自主映画出身監督》の代表格であり、例外的な存在でもある。多くの自主映画出身監督にとって自主映画はスタート地点で、その後商業映画体制に移っていくものだが、塚本監督は自主映画体制を維持して作品を作り続けているからだ。塚本監督が映画作りとどう向き合っているのか、いろいろお聞きした。
1960年1月1日、東京・渋谷生まれ。14歳で初めて8ミリカメラを手にする。87年『電柱小僧の冒険』でPFFグランプリ受賞。89年『鉄男』で劇場映画デビューと同時に、ローマ国際ファンタスティック映画祭グランプリ受賞。主な作品に『東京フィスト』(95)、『バレット・バレエ』(98)、『六月の蛇』(2002)、『KOTOKO』(11)、『野火』(14)、『斬、』(18)、『ほかげ』(23)など。俳優としては自身の監督作のほか、『殺し屋1』(01)、『沈黙ーサイレンスー』(16)、NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』(19)、『シン・仮面ライダー』(23)など多数出演している。
8ミリで怪獣映画を撮り始める
―― 塚本さんが最初に8ミリカメラを手にしたのはいつですか?
塚本 父親が機械好きで、スチールカメラが仕事でもあり趣味でもあるようなところもあって。僕が中学校の時に名画座で映画を観始めた頃、父親が僕のためじゃなくて父親自身のために、スーパー8のカメラを買ってきた。「あれがあれば映画というものができるのか」と思って、じーっと横目で見て、やがてそれを手にすることになっていく感じですね。
―― 最初は台本を書くところから始めたんですか?
塚本 そうなんですよね。ところが意気込みすぎて、脚本を原稿用紙で100枚ぐらい書いちゃって。怪獣映画で。
―― 怪獣映画ですか。
塚本 100枚書いて、じゃあ撮ろうということで、友達を集めてスーパー8のカメラで撮るんです。非常にドキドキしてうれしい記憶なんですけど、台風を伝えるラジオという、怪獣が現れそうな気配から始まって、友達同士で淡々と引きで話しているうちに3分ピッと終わっちゃったんですね。それだけで、フィルム代1000円、現像代500円の1500円が消えちゃったので、これはまずいなと思って。急遽脚本をキューッとタイトなのに変えて。なるべく動きをつけて、見ていて面白いものに変えて。
初作品は水木しげるの『原始さん』
―― その映画は完成したんですか?
塚本 その最初の怪獣映画は怪物ゲドラという、トカゲの怪獣で、当時公害とかがあったから、東京湾に落っこっちゃったトカゲのお友達が大きくなっちゃうというのだったんですけど、怪獣が作れなかったんですね。
―― 作れなかったんですか?
塚本 『特撮のタネ本』という円谷一さんの、僕の当時のバイブルと言ってもいい本を図書館で借りて……ずっと僕が借りているので僕の名前ばっかりが連なって、最後にボロボロになっちゃったんですけど。そのバイブルを見るといろいろいいトンチな特撮の方法が書いてあるんですけど、怪獣だけはラテックスを使った立派な作り方しか書いてなくて、それは買えないなと。それで、お父さんのパジャマをもらって、そこに発泡スチロールをボンドで貼っていくわけですね。結構怪獣らしいのを作ったつもりなんですけど、ボンドで貼っちゃうとカチカチになって二度と穿けないんですね。で、怪獣は難しいわとなった時、水木しげるさんの『原始さん』という短いマンガがあったので、これだったら10分ぐらいになるなと。『原始さん』でしたら、怪獣のぬいぐるみがなくても、原始人だから布切れ一枚穿いて演じればいい。でも、ビルだけはどうしても壊したい。
―― 巨人になるんですね。
塚本 そう。ビルは自分が発泡スチロールでこさえて、友達に原始さんになってもらってビルを破壊するという映画を作った。これは完成して、僕は図書委員長だったので、よく読まれる本ベスト10みたいな感じの図書委員のイベントを装いながら、自分の『原始さん』を図書室で上映した。延べ300人、ほぼ全校生徒の人数が集まりました。
―― すごい経験ですね。それは中学何年生?
塚本 中学3年ですね。卒業の前でした。