カルトムービーとなった『鉄男』の成功により、塚本晋也監督に初の商業映画の企画が舞い込んできた。少年ジャンプに掲載され、熱狂的なファンを持っていた諸星大二郎のコミック『妖怪ハンター』を映画化するというものだった。日本映画界を担う監督たちの若き日を振り返るインタビューシリーズの第7弾。(全4回の4回目/最初から読む)
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初の商業映画『ヒルコ 妖怪ハンター』の監督に抜擢
―― 次が『ヒルコ 妖怪ハンター』(1991)ですね。『鉄男』から『ヒルコ』までもまた早かったですよね。
塚本 『鉄男』にお客さまがだいぶ来たということで、あるプロデューサーから電話がかかってきて、原作ものをやらないかと言われて。いつかそういう大きな映画もやりたいと思っていたので嬉しいけど、原作によるなと思ったんですよ。そうしたら諸星大二郎さんだというので、大好きな方なので、その電話で急に正座して「やらせてください」とお願いした感じです。
―― 完全な商業体制の中で初めて監督されるという経験だったと思うんですけれど、それまでと全然違う体制でやられた時の苦労はあったんですか?
塚本 苦労がないと言えば嘘になるんですけど、僕はテレビのコマーシャルをやっていた時に、大人の方々とお付き合いすることがあったものですから、思ったほど、ビビッちゃって何が何だか分からなくて錯乱してしまうという感じではなかったですね。また、プロフェッショナルな方々が素晴らしい方々だったので、本当によくいろんなことも教えてくださいましたし、非常に好意的に関わってくださったので。あまりにスタッフが大勢いて、「30人ぐらいスタッフが来るっていうんですけど、それはどういう役割なんですか」って利重剛さん(注1)に聞きに行った記憶があります。
―― そうですよね。いろんな役職名があるけど、何をする人でどっちが上なの?って分からないところはありますよね。
塚本 それで、僕はお友達が少なかったので、そう呼んで差し支えないかどうかなんですけど、お友達の利重さんのところに行って聞いて、丁寧に教えてもらいました。
―― 利重とはどこで出会っていたんですか?
塚本 『電柱小僧』とか『鉄男』とか、ぴあ絡みの時に最初お会いして、何となく親しくなっていった感じなんですけど。利重さんに「チーフっていうのがいてね」とか「セカンドは何でサードは何で」みたいなことを聞いて、現場に行ったら、30人どころじゃなかったですね。あの映画は大きい映画だったので、80人ぐらい常時いて、トラックなんかもいっぱい動いていたので、ビックリしちゃった。僕はカメラマンの岸本さん(注2)と記録の方の2人にとにかく集中すると決めました。