技術はうまくなったけど大事なものが落ちちゃった…
塚本 青春ものですね。怪獣映画から青春ものに変わったきっかけのところで。高校ではその後に、山上たつひこさん原作の『光る風』を映画化した『曇天』(1976)という、かなり力のこもった映画を作りました。日本を記録する映像フェスティバルでは全然引っかからなかったんですけど、僕としては非常に大事な映画だなと思っていて。その後の『地獄町小便下宿にて飛んだよ』(1977)という2時間以上ある映画は、これはいまだに僕の映画の中で一番感動的なんじゃないかと思っているんですけど、学校でも皆さんにものすごく喜んでもらって、日本を記録する映像フェスティバルでもお客の学生の皆さんが「なんでこれが受賞しないんだ」と審査員の人たちに掛け合ってくれるぐらいの熱い動きがあったんです。でも、ワンカットの中で芝居が多くて、カットもあまり割られてないような感じが演劇的なので、映画的ではないみたいな評価をもらった記憶があります。
大学に行ってからは、それまで技術的にあまりにひどかったので、ちゃんとお客さんに見せられる映画を作らなきゃという意識で作りました。『翼』をもう一回きちんと作り直した映画もあって、その後の『蓮の花飛べ』(1979)という映画は、二十歳になる前の最後のイベントだと思って作ったかなり長い映画です。でもそれが、何か評判が良くなくて。自分としても「あれ?」という感じで。技術はだいぶうまくなったはずなんですけど、何か大事なものが落ちちゃったような感じがあって。一生懸命かかわってくださった当時の皆には悪いから、こんなこと言っていいのか分からないんですけど、大きく失望して、そこからちょっと8ミリから離れちゃうんですね。
高校3年の時に始めた演劇、それもアングラ演劇みたいなほうにグーッと傾斜して、しばらく戻ってこなくなっちゃいました。
―― もう高校3年で演劇も始められていたんですか。演劇を始めた理由は何だったんですか?
塚本 もともと芝居が好きなので。演技をするということも好きですし。あとは、唐十郎さんのお芝居に高校時代に接するんです。通学途中に電車から赤いテントが立っているのを見て、「あれはなんだ」という感じで。あの芝居の中の戯曲はこれらしいというので、角川文庫かなんかに『少女仮面』とかいう不思議な紫色の本が出ていて、読むと難解で何が書いてあるかさっぱり分からないんですけど、分からないのに何だか魅力的で、「これはなんだ」と見に行ったら、またすごくはまった感じですね。それにもろに影響されて演劇を始めることになりました。
<聞き手>こなか かずや 1963年三重県生まれ。映画監督。小学生の頃から8ミリカメラを廻し始め、数多くの自主映画を撮る。成蹊高校映画研究部、立教大学SPPなどでの自主映画制作を経て、86年『星空のむこうの国』で商業映画デビュー。
97年、『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』でウルトラシリーズ初監督。以降、監督・特技監督として映画・テレビシリーズ両方でウルトラシリーズに深く関わる。特撮、アニメーション、ドキュメンタリー、TVドラマ、劇映画で幅広く活動中。
主な監督作品に、『四月怪談』(88)、『なぞの転校生』(98)、『ULTRAMAN』(2004)、『東京少女』(08)、『VAMP』 (18)、『Single8』 (22)、『劇場版シルバニアファミリー フレアからのおくりもの』(23)など。
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