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―― 小物撮りを延々とやっていた感じですか。

塚本 そうですね。最後のイメージの、ニューワールドだといって無機的な世界がワーッと広がるところは、手伝ってくれる人ももういなかった状態で、1人でちょっと動かしては撮っていた記憶があります。それが本当に最終ラウンドでしょうか。

―― じゃあ、その頃にPFFで『電柱小僧』が入選するんですね。

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塚本 そうですね。『電柱小僧』で表彰状をいただいた、あのステージの上の光の明るさが本当にまぶしくて。それまで高校の時に作った画家の話とか、みんなが推してくれるんですけど、何かもう一つ日の目を見ずに終わっているとか、いつも暗い影の中に居るという気持ちがずっとしていたので、ついに光の中に、20代の後半にしてやっと出られたような気がしたので、すごくうれしくて。

『鉄男』を公開、カルトムービーに

―― 『鉄男』はすごく話題になって、公開も拡大するし、あの当時、ビデオも出ましたね。

塚本 そうですね。仕上げ費用はビデオ会社に出していただきました。

―― 途中の段階で見せたんですね。

塚本 そうですね。仕上げ費をお願いしますということで。それで録音費と、最終的なネガ編などの仕上げも出していただいて、完成にこぎつけて。ですから、ビデオ化権はそちらにお譲りして完成にこぎつけたと。

―― あの当時、レンタルビデオ屋全盛期ですよね。僕も16ミリで『星空のむこうの国』(1986)を作った時、お金がなくて現像所とダビング代は後払いでなんとか仕上げたんですが、完成作品をビデオ会社に見せてビデオ化権を売って、未払いのお金を払いました。

塚本 やっぱり似たようなところをやらざるを得ないところが当時はありましたね。

©藍河兼一

―― 映画会社以外にビデオ会社とかが映画にお金を出すようになった時代でした。

塚本 いつもそうですけど、お金には苦労した記憶がありますね。当時はフィルムとか現像関係にとにかくお金がかかったので。今はそこにお金があんまりかからないので、なんて幸せなんだろうと。

―― そうですね。それはビックリ。デジタル化で、劇場映画と自主映画の境目が技術的にはなくなりました。

塚本 ないですよね。うらやましいですね。

―― 『鉄男』の劇場公開はどういうかたちだったんですか?

塚本 中野武蔵野ホールという小さな中野にある映画館で公開しました。『ぴあ』には自主映画欄とロードショー欄があって、何とか『鉄男』は自主映画じゃないかたちで上映したいという強い気持ちがあったものですから。中野武蔵野ホールでやるとロードショー欄に載せてくれた。ただ、昼にやると一瞬で終わるだろうと予測して、レイトショーで延々やってもらった。『ぴあ』にいつも『鉄男』という映画があるね、と載りたいと。それで3カ月ロングランして、印象付けることができたかなと思いました。

―― 当時カルトムービーがレイトショーでずっとやっているパターンがありましたね。

塚本 そうですね。それを踏襲させてもらったのかなと思います。

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