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「20代の頃は、すごくイヤだったんですよ。『キムタク』って呼ばれるのが。人なのに商品っぽいっていうか。その呼び名でパッケージされて、店頭に並ぶ商品と同じ存在になった気がして」(※6)

 キムタクという商品にされること――。それは、“芸能界”に生きることと同義のようにも感じられる。

 20代の若者だった頃から、木村拓哉は自分の違和感を発信し、ときに拒むような態度すら見せていた。大ブレイクの最中にいながらも、商品として売られることに安易に迎合しないその姿勢は、芸能界に彼を消費させ尽くすことを許さなかった。その結果、 “キムタク”は一過性のブームで終わらず、今も健在だ。

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木村拓哉 ©︎時事通信社

キャスティングにも進言するプロデューサー気質

 木村拓哉には、若き日の時点で“プロデューサー目線”を持っているという自負があった。以下は、1996年11月の言葉だ。

「仕事の現場では、木村拓哉っていうてめえ自身をてめえで見るっていうか、プロデューサー的な目で客観的に見る自分が必要だと思ってる。自分で自分にやらせる仕事がわかってないと、責任だって持てないし、それは周りに対して失礼だからね。以前は、仕事の状況は誰かが用意して、自分は単にその一部になってたこともあった。でも、今は“現場”の人。『スマスマ』だったら『スマスマ』の人。取材だったら、そこの雑誌の人。いつも、つくる立場のほうにいる」(※7)

 自分が単なる一部、パーツになってはいけない、と作り手としての意識をも持つ。「アイドルとはお膳立てされるもの」だと思っていた錦織とも似た意識の変化を木村も辿っている。

 そして“このプロデューサー目線である”というのは単に自負があるだけではなく、実際に行っていたことでもある。

 1994年、木村拓哉は主演・萩原聖人の友人役で出演したドラマ『若者のすべて』に、自身の好きな映画『アウトサイダー』に内容的な近さを感じ、映画の主題歌であるスティーヴィー・ワンダーの「ステイ・ゴールド」を挿入歌として流せないか、とプロデューサーに“ゴリ押し”して流してもらったという(※8)。