「逮捕された1966年8月18日から自白したとされる9月9日までの23日間の清水警察署は悪魔の館でした。逮捕から数日すると黒のカーテンが窓に引かれ、昼なお薄暗く、蒸し風呂のように暑いところでした」
「そこで何が行われたのか正直はっきりわかりません。日に何度も、いえ何十回も棍棒(警棒のこと)で殴られ昏倒しました。私はここで45通の供述調書を取られたことになっています。しかし、署名し指印を押したのは、最初の頃の数通です。他は全く記憶にありません」
「最後の9月9日の検事調書一通のみが証拠採用された自白調書というものですが、自白したのかどうかもわかりません。気がつけば深夜、留置室の床の上に転がっていて、目が覚めると手足の指の先に激しい痛みを感じました。よく見るとほとんどの指の爪と肉の間に針かピンで刺された傷跡がありました」袴田さんは自白をしていない! それが直感だった。この後、袴田さんは戦慄の取り調べ状況を告白したのである。
殴る蹴るとなった取り調べ
勾留の最長日数は23日、その間に起訴しなければ釈放しなければならない。逮捕から1週間。自白を迫るが否認を続ける袴田さんに、本格的な拷問が始まったという。
「殺しても病気で死んだと言えばそれまでだ! 吐け、お前がやったんだろ。吐け! 死んでもいいのか」と捜査官は脅しつけ、怒鳴りつけながら、樫材の警棒で尻、太もも、二の腕を絶え間なく殴り続けた。
時を同じくして、取調室に簡易便器が持ち込まれた。取り調べ中はトイレに行かせないという構えだった。通常の神経ならば捜査官の面前で大小便の用を足せと言われてもできるものではない。大小便を我慢している腹部と臀部に警棒が容赦なく振り下ろされたのである。激痛だけではない、袴田さんは何度も失禁して糞尿にまみれるという屈辱を味わわされたと言った。
袴田さんは取り調べ状況を一つ一つ思い出してから語った。しかし、記憶はずいぶん欠落しているようだし、思い出そうにも映像が浮かばないものが多いようだった。私はただ頷きながらメモを取った。