1980年に、最高裁判決により死刑が確定した袴田巌さん。当時、元刑務官で現在ノンフィクション作家の坂本敏夫氏が、法務省の事務官として袴田さんに三度目の面接をしたのは、1982年、再審請求の準備が始まる頃だった。そこで初めて、袴田さんが「なぜ自白したのか」その戦慄の真相を聞く――。(2回目/全3回)
煙たい存在になった袴田さん
1982年夏、予算要求作業期間中に三回目の面接をしたのだが、今度は拘置所側がずいぶん不親切になった。
午後1時から面接させるという約束で、私は舎房中央にある取調室に案内された。ここには空調設備がない。窓を開けるが風は入らない。ひどい蒸し暑さだ。長時間待たされた。私が袴田さんと面接を果たせたのは、1時間半後だった。
その30分ほど前に、主任(階級は副看守長)がやってきて、「今日は本人の心情が不安定なので面接をさせられません」と言った。何があったのかと訊くと、区長(担当の保安課長補佐で北舎を受け持つトップ。階級は看守長)と面接中に口論になったので止めに入ったが、本人の興奮が収まらないからと言う。
主任の顔を見れば真相はわかる。興奮冷めやらないのは区長の方だろう。刑務所出身の新任看守長は思い違いをしている。囚人はいつも素直に幹部刑務官の言うことを聞き入れると思っている。それは刑務所の受刑者に限られる。この東京拘置所では通用しない。幹部だからと、偉そうな態度で面接し、ちょっとした行き違いから言い合いになったのだろう。
「あなたも大変ですね。死刑確定者だけでなく、新任区長のお守りもしなければならないのだから……。しかし私も予定が詰まっていて日程が取れないので、今日面接をします。どうしても区長が不許可というのなら、所長に直接頼みますから、今から所長室に案内してください」
私はイヤミたっぷりに無理難題を押し付けた。
「参りましたなぁ。事務官には……。上に取り次いでみましょう」。係長は腹を読まれた照れ隠しに笑顔を残して部屋を出て行った。