エスムラルダ アカーでは電話相談もやっていたので、勇気を出して電話をかけ、事務所に行ってみました。そこでようやくゲイの友だちがたくさんできたんです。同じような経験をしてきているので分かり合えることも多かったし、何も隠さず、正直に恋バナができる解放感がありました。今まで、どれほど自分が気持ちをおさえつけていたのかがよくわかったんです。
それで勢いづいて、身近な人にカミングアウトし始めました。母と、たまたまそれを聞いていた姉。あとは大学の友だちや、予備校時代の仲のよかった友だちにも話しました。
それから半年くらい後、1993年の春に、ゲイ雑誌の文通欄に同じ大学の子が投稿しているのを見つけました。手紙を送ってみたら、大学内にその人を含め、同世代のゲイの子が4人ほどいるのがわかって。みんなブルボンヌさん(ドラァグクイーン、エッセイスト)がやっていたパソコン通信に参加していたので、その縁で私もブルボンヌさんと知り合い、仲良くなりました。
ドラァグデビューは大学時代、そして独自路線のクイーンへ
――大学2年の夏まで異性愛者の仮面をかぶっていたエスムさんが、パソコン通信を通じてブルボンヌさんと出会ったことで、ドラァグクイーンデビューに繋がっていくんですね。
エスムラルダ それまでも芝浦の「GOLD」とか西麻布の「YELLOW」とかのクラブで定期的にゲイナイトが行われていて、よく遊びに行っていたんだけど、1994年に、新宿2丁目に「Bar Delight」っていうクラブができたの。
一方で、今も第一線で活躍しているル・ポールというアメリカのドラァグクイーンが出した『スーパーモデル(ユー・ベター・ワーク)』という曲が世界中のクラブシーンで流行してた。そこでブルボンヌさんに「パソコン通信の4周年イベントをDelightでやろう」「私たちもドラァグクイーンをやってみよう!」って言われて、1994年の9月に初めてショーをやりました。
――それがエスムさんのドラァグクイーン活動のスタートに。
エスムラルダ その頃、映画『プリシラ』(1995年日本公開、ドラァグクイーンたちのロードムービー)とかの影響もあって、ドラァグクイーンという存在が徐々に知られるようになっていって。当初は半年に1回くらいのペースだったけど、96~97年くらいからドラァグクイーンがショーをやるイベントが増えていき、私たちにも「お笑い系のクイーン」として、お呼びがかかるようになっていったの。
写真=鈴木七絵/文藝春秋