独自の路線で注目を集め、活動30年を超えたドラァグクイーンのエスムラルダさん(52)。一橋大学出身と高学歴で、多ジャンルにわたるライターという顔をもち、商業ミュージカルも手掛ける脚本家でもある。さらに2018年にはドラァグクイーン・ディーヴァ・ユニット「八方不美人」のメンバーとして歌手デビューを飾り、現在も華麗な活躍が続いている。
そんな多才なエスムラルダさんに3回にわたってお話をうかがった。第1回は、同性愛者であることを自覚し悩んだ時代を越え、ゲイ文化に触れてドラァグクイーンデビューするまでのお話。(全3回の1回目/続きを読む)
よその家で、演歌を歌って聴かせていた子ども時代
――エスムラルダさんはどのような環境で育ったんでしょう?
エスムラルダ 家族は父、専業主婦の母、4つ上の姉が1人。父親が石油会社の社員で転勤族だったのでコンビナートのある土地に移り住んでました。
生まれは大阪の泉大津、そのあと堺の南側にある高石っていうところに移り住んで、小学校4年から6年の間は広島へ。東京に来たのは中学校からです。
――関西弁のイメージが全くないので大阪出身とは意外です。
エスムラルダ 両親は山口出身なんですけど家では標準語。でも、子どもってやっぱり順応性が高くて、友だちとしゃべるときは大阪弁や広島弁でした。それから高校・大学進学とずっと東京で暮らしたので、標準語になりました。
――高校時代はすでにバンド活動で音楽をやっていらしたとか。
エスムラルダ 高校にロックバンドの同好会とアコースティックサウンドの同好会、2つの音楽サークルがあって、アコースティックの方に入ってました。当時は頑張って弾き語りとかやってね。子どもの頃エレクトーンやピアノを習っていたんですけど、引っ越しがあって辞めちゃって、今はもう全然。あのまま続けておけばよかった。
――歌も習っていたんですか?
エスムラルダ 中学で合唱部に入ってたぐらい。音楽の先生が合唱に熱心で、男子が足りなくて声をかけられたの。親に運動しろって言われて、仕方なく卓球部に入っていたので、兼部で合唱部にも入って。NHKの合唱コンクールにも出てましたね。
あと、小学校に上がる前だったと思うけど、同じ社宅のよその家に上がって『北の宿から』や『津軽海峡・冬景色』を歌っては褒められて帰る、みたいな迷惑な子どもでした。子どもの頃から好きでしたね、歌うのは。