安楽死だけは絶対に避けたい…必死でとった行動は
「待ってください! 治療できるところを探すので、もう少しだけ待ってください」
林さんは、知りうる限りの競馬関係者に電話をかけはじめた。しかし、複数の知り合いに怪我の状態を伝えるほどに、自分がやろうとしていることがいかに難しいかがわかってきた。時間は10分、20分と刻々と過ぎていき、待たされたままの関係者の苛立ちは頂点に達しようとしていた。
あの人なら、相談できるかもしれない――。ある競馬関係者を介して、馬事学院の野口さんの情報にたどりついたのは30分後のことだった。
レース中に靭帯を断裂して安楽死させられそうな馬がいて、その馬主が治療できる場所を探している。連絡を受けた野口さんが真っ先に思い浮かべたのは、かつて同様の状態の馬を治療したときのことだった。どれだけ手を尽くしても、靭帯断裂という重傷を負った競走馬が完全に復活することは難しい。オーナーが何をどこまで望んでいるのか、まずはそれを確認する必要があった。
「もう人を乗せられなくてもいいんです。せめて自分の意思で歩けるようにしてあげたい。もう時間がないんです。なんとかご協力いただけないでしょうか」
電話口の林さんの悲痛な声を聞けば、決断のときがすぐそこに迫っていることが伝わってきた。馬の状況を確認すると、痛みに耐えながらも3本の肢で立っているという。これなら救えるかもしれない! そう感じた野口さんは、学院から馬運車を出す決断をした。
とはいえ懸念は尽きなかった。笠松競馬場から馬事学院がある千葉の八街市まで、約450キロもの距離がある。ノンストップでも6時間近くもかかる馬運車での移動は、健康な馬でさえかなりの体力を消耗する。激痛を抱えて3本の肢で立つフロリダパンサーが、果たしてそれだけの長距離移動に耐えられるのか。馬のためを考えると、散々苦しい思いをさせたあげく安楽死になることだけは絶対に避けたい。
それでも応急処置でギプスと包帯で肢を固定されたフロリダパンサーは、辛い移動を耐えぬき、馬事学院に到着することができた。馬運車から降ろされたとき、その目からはハラハラと涙が流れていた。痛みによるものなのか、生命の危機を感じた不安や強いストレスによるものなのか、涙の理由はフロリダパンサーにしかわからないが、野口さんは「ここまで無事に連れてくることができて、本当によかった」と少しだけ胸を撫で下ろした。