競馬業界では毎年約7千頭のサラブレッドが生産され、一方で約6千頭が引退するが、その多くは行方不明になっているという。
犬や猫の殺処分問題などについて執筆を続けてきたノンフィクション作家の片野ゆかさんは、引退競走馬のそんな実情を知って大きなショックを受け、引退競走馬支援についての取材を始めた。その内容をまとめたのが、2023年12月に上梓された『セカンドキャリア 引退競走馬をめぐる旅』(集英社)である。ここでは同書より一部を抜粋して紹介する。
取材を続ける中で片野さんは1頭の「めっちゃかわいい」引退競走馬と出会う。それが、ハンディキャップのある子どもたちの支援プログラムで活躍するセラピーホースとしてセカンドキャリアを歩んでいる「ラッキーハンター」だった。
「ラッキーハンター」の共同馬主になり、そのことをSNSで公表した片野さんのもとに、滋賀県の栗東トレーニングセンターに勤務する林達郎さんから1通のメッセージが届く。林さんは競走馬時代のラッキーハンターを調教した人物で、どうやらラッキーハンターのことを深く愛しているようだ。
片野さんは栗東へ足を運び、林さんに話を聞いたーー。(全3回の1回目/続きを読む)
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林さんとの待ち合わせ
栗東を訪れたのはコロナ禍がはじまって以降、数か月ぶりだった。林さんとの待ち合わせ場所は、もちろんラッキーハンターが暮らすTCCセラピーパークだ。
軽快な歩調でロビーにあらわれたのは、大柄ではないけれど背筋のスッキリした印象の男性だった。肩書きは、音無秀孝調教師の厩舎所属の調教助手。主な仕事は、調教師の指示のもとで、競走馬の日々のトレーニングからアフターケア、心身の健康管理までトータルでおこなうことだという。
林さんをはじめトレセンで働く人々の多くはJRA所属だが、採用は調教師が運営する厩舎単位におこなわれている。各厩舎は完全独立採算制で、どうやら競馬業界というのは、トレセンという国のなかで複数のライバル企業が切磋琢磨しているようなものらしい。日々の勤務時間について訊くと、担当馬がレースに出ない日は午前2時から9時過ぎまで、午後は3時前から夕方までだという。馬の朝は早いと聞くが、この世界の1日は、ほぼ日付変更とともに始まっているのだ。この日、林さんは午前中の仕事を終えたところだった。
一番人気のおやつ
「ラッキーに会うのは久しぶりなので、楽しみにしていました」
林さんは、見るからに新鮮そうな袋入りのニンジンを手にしていた。鼻先にぶら下げるという表現など、馬とニンジンの組み合わせはステレオタイプなものだと思っていたが、あながちそうでもないらしい。
「馬って、本当にニンジンが好きなんですね」
「ニンジンが嫌いな子はいません」
林さんは、一番人気のおやつだという。早速、ラッキーハンターに食べさせてあげたいところだけれど、午前中はハンディキャップのある子どもたちのための支援プログラムで、セラピーホースとして働いている。セカンドキャリアでも大活躍しているのだ。競走馬とセラピーホース、ふたつの時代を知る林さんの目に、ラッキーハンターはどのように映っていたのだろう。ニンジンタイムは後のお楽しみにとっておいて、ファーストキャリアについて訊いてみることにした。