『三菱鉱業社史』は、閉山に至った経緯をこう説明している。
端島では引続き三ツ瀬区域を4払体制で操業したが、次期稼行区域として昭和40年度から開発に着手し、探炭坑道掘進中の端島沖区域は、調査の結果炭層が深度1200m以深に賦存(ふぞん)し、到底(とうてい)稼行の対象となり得ないことが判明した。そこで45年3月その区域の開発を断念した。
これに伴って同社は直ちに職組、労組に対して、端島沖区域探炭結果や三ツ瀬区域の炭量および今後の操業方針について説明したが、同年4月労組の要請にもとづき、九大松下教授等をメンバーとする調査団が現地調査を行い、会社の説明内容を裏付ける報告をした。その後交渉が重ねられたが、同年9月17日に妥結し、この結果端島は現稼行区域の三ツ瀬区域の残存炭量約200万tを有利採掘して閉山するとの基本路線が確定した。
「この島に骨を埋める覚悟だった」と無念を語った炭鉱夫たち
炭鉱での採掘や石炭精製の作業は、1973年末で終えた。そして、年が明け、1月15日閉山式が行われることになる。14日付の朝日新聞は「軍艦島あす閉山」という見出しで、こう報じた。
ヤマ元では13日から労組の主婦会、職場ごとの部会の解散式が始まった。(中略)島を離れて未知の世界で第二の人生を求める不安が、どの顔にもあった。
「この島に骨を埋める覚悟だった――」というあいさつで、採炭部会の解散式は始まった。地底の第一線で働いてきた110人余りの男たちは、四斗たる(酒樽)のカガミを抜き「どこへ行っても住所を知らせるけん」「元気でな」と威勢よく酒をくみかわした。再就職の話題は努めて避けていた。
下請け組員をふくめ、819人の離職者のうち、約120人は隣の高島鉱へ移る。「炭鉱はやはりカネがいいけん。子ども四人もおっては」(40歳)、「このトシでは他によか仕事もなかろう」(51歳)――と。
軍艦島の炭鉱夫たちの待遇は、一般的なオフィスワーカーに比べても良いほうだった。平均月収は12万円余。鉄筋コンクリートの団地の家賃は10円。水道代は無料。プロパンガスの購入補助も会社から出ていた。当時、「三種の神器」と呼ばれたテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫も、ほぼ全ての家庭が持っていたという。