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最盛期には東京ドーム1.4個分の土地に5000人以上が暮らし、人口密度は日本一。「一島一家」と言われた端島は、島国日本の縮図だった。食堂や市場はもちろん、映画館やスナックもあった。日本で初めてできた鉄筋コンクリート高層住宅が並び建ち、高層階の部屋からはリゾートホテルのように海が見える。そんな暮らしを続けたかった人も多いだろう。

【参考記事】軍艦島で生まれ育った人が「本当に楽しかった」と追憶…炭鉱労働者の島「6畳+4畳半」で家族8人の暮らし

石油ショックが始まった中での会社解散は不安しかない

しかし、そんな気持ちの問題、ノスタルジーだけではなく、マクロ経済とミクロ経済の両面で、1974年の閉山は、最悪のタイミングだった。

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1973年に第4次中東戦争を機に第1次オイルショックが始まり、果たして石油に依存する暮らしが成り立つのかという社会不安が日本全土を襲っていたからだ。

長崎新聞は「石油危機でにわかに“石炭見直し”がクローズアップしているなかで」と書き、朝日新聞も「エネルギー危機のさ中 数百万トンを残して 軍艦島あす閉山」と批判的な見出しを付けている。

次々と閉山に追い立てられ、端島が四度目のヤマという45歳の鉱員は、他のヤマに行くか、思い切って新天地にいくか、まだ迷っていた。「もう、やり直しはきかんけん」という。そして「端島はあと10年はもつ、ときいていた。まだスミはあるとに」と繰り返した。
(朝日新聞1974年1月14日付)

1974年は夜の街のネオンサインが消える非常事態だった

「まだ石炭は採れる」という炭鉱員と、「保安上、事故のリスクなしに採れる石炭はもうない」とする会社との間に考えの違いがあったようだが、既に1960年代から、国はエネルギーの転換を図っていた。石炭から石油へ。炭鉱の閉山が相次ぐ中、端島は採れる石炭の質が良いということで、三菱の炭鉱の中でも最後まで残された場所だったのだ。