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この話を聞いた人はなんて悲惨な状況だと思うに違いない。

辛そうな顔ではなく“変顔”だと認識していた

また、殴られた上に、顔が腫れて変形している写真を常に部屋に貼られ、両親の笑いの材料にされている男児のことを思うと不憫(ふびん)でならないと思うだろう。息子にとってみれば、こんな仕打ちを親からされ、情けないを通り越して地獄にいるような気持ちであったとも想像できる。

ただ、Xさん自身はわが子が同じ失敗をしないようにと親心としてのしつけを行ったまでの認識で、手を上げたことはさすがにやりすぎたと考えてはいるが、それも一時的でしかなかった。

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それより、その後の写真を貼ったり、それを笑いの材料にしたりしていたことは、皆目悪いと思っていないのであった。Xさんからすると、その息子の顔の写真は普段から家庭内でよく遊びでしている“変顔”の一つでしかなかったのである。

このようなことが生じるのは、親がどこに認知を向けるかという問題と密接に関係している。同じ息子の顔写真であったとしても、「殴られたあとの辛そうな顔」と見るのか、「おもしろい変顔」と見るのかでそこが大きく違う。

親の注意が子どものどこに向けられているかとともに、そこに子どもへの共感性がどれだけ作用しているかである。そこには息子の辛くて悔しい気持ちをくみ取るといった親の共感性のある・なしが問われる。

子どもの能力を高く評価しすぎてしまう事例も…

子どものどの部分に親の注意を向けるかという点で言えば、子どもの持っている能力に対しての親の認知バイアスが問題になることもしばしばある。

実際の子どもの能力と親が認知する子どもの能力の間に開きがあることで、近年、「教育ネグレクト」や「教育虐待」などと叫ばれている事象などが出現してしまう。この子どもの能力への認知バイアスとして、親が実際以上に子どもの能力が高いと認知し、結果子どもに負担を強いるものがある。

【事例②:娘をオリンピック選手しようとして虐待通告された20代の母親】