「カミサマ」と呼ばれた人気教員だった
12歳の時、試験に合格して恵那郡の小学校の代用教員*になる。上京したのは同じ岩村藩出身で当時陸軍砲兵中尉だった大島健一(のち陸軍大臣)を頼ってだった。
*代用教員=戦前学校にみられた、免許を持たない教員のこと
大島家で居候をしたのち、築地明石町の私立鈴木学校の教師に。そのころから、不思議な神通力を持ち、麹町平河町に住んでいたことから「平河町のカミサマ」と呼ばれるようになった。そして1889(明治22)年、条約改正反対運動に参加。一方で「東京廃娼会」を組織したという。
「廃娼」とは日本の公娼制度の廃止を求めること。1872(明治5)年に出された芸娼妓解放令は有名無実で、自由民権運動の高まりとともに、キリスト教徒を中心に廃娼論が盛んに。女性団体メンバーや教育者、三宅雪嶺らジャーナリストも加わって論陣を張った。1890年に出された『廃娼同盟会演説集 正義の反響』(廃娼雑誌社)は演説会の内容をまとめた冊子で、「東京廃娼会員 飯野吉三郎」が開会の辞を述べている。廃娼運動の波にうまく乗ったということか。
吉三郎の鈴木学校での教え子で日本画の大家となった鏑木清方は「中央公論」1952年12月号の「こしかたの記(二)」で吉三郎のことを「野性的な、山出しの書生ッポという様子が、かえって生徒に親しまれて、いつか人気のある先生になった」と回想している。「穏田の行者・飯野吉三郎の実像」にはこのあと15年間の記述がない。
著名人との関係を深めて
東朝は「ほどなく廃娼熱も立ち消えとなり、口にする者もいなくなったため、やむを得ず牛込区市谷佐土原町1丁目に居宅を構え、新聞記者となって身を立てようと奔走。神田辺りの某新聞社へ入ったが、たちまち追い出され、生計の道を失った」と記述。森長英三郎『史談裁判第4集』(1975年)は次のように書く。
それからいったん郷里に帰り、修行して「自己が覚知せし霊の働きという一種の真理」「茫々たる宇宙の大精神から六合の平和を永遠に維持する真理」を発見したという。「純日本主義を発揮してついに世界を統一する」という精神主義であるようだ。
日清戦争(1894~1895年)のころに再び上京。牛込天神町で「精神學團(学団)」を組織した。飯野はこの学団の主宰者として、当時の名士である三宅雪嶺、巌本善治、陸実(羯南)、本多庸一、押川方義らの集まりである心霊会にも加わっている。
『凡人非凡人』は「飯野吉三郎が精神教を標榜して世人の前に現れたのはこの時からであった」としている。この人物たちとは廃娼運動からのつながりもあったのだろう。1895(明治28)年1月10日付読売には吉三郎を持ち上げた「精神学団」の広告が見える。
巌本と本多、押川の3人はキリスト教指導者、陸は新聞「日本」の創刊者で、三宅と合わせ、いずれも著名人。吉三郎はこの辺りで人脈を広げたのだろう。東朝1896年6月25日付の記事に戻る。



