女生徒たちから金を巻き上げ…

 一策を案じ、自ら精神学者を名乗って自宅に「日本精神講談(〔引用者注〕学団の誤りか)」の看板を掲げ、生徒を募り、教育家の間を行き来した。特に麹町区上六番町の明治女学院*につてを求めてたびたび出入り。同学校女生徒の宿泊先名簿を写し取り、その中の誰かをだまして何かに役立てようとひそかに策を講じた。

 そうした内幕を知らない若い男女は、吉三郎の触れ込みと生徒募集広告が立派なのにだまされて続々と吉三郎の講義を聞きに行き、中でも明治女学院の女生徒は多く吉三郎の門に入り、日ごとその家に通学した。

 吉三郎はその女生徒たちの国元から100円(現在の約55万円)、200円(約110万円)と送ってくる多額の学資をいろいろな名義で巻き上げて自分の懐に入れていた。そのため女生徒の14~15人は早くもその精神学が奇怪なことを知り、袖を連ねて退去したという。

 吉三郎も「これは一大事。こんな所に長居しては信用を失うもと」と、天神町に転居。玄関にテーブル、いすを並べ、執事、雑用人、下女を雇い、東京・西多摩郡平井村(現日の出町)の高原お梅(27)という美貌の女性を妻同然とし、愛知県丹野郡穂沢村(該当する地名なし)の鈴木おげん(22)という才気、美貌の明治女学院生を家に引き入れ、ぜいたく三昧に日を暮らしていた。

*明治女学院=島田三郎、巌本善治らが発起人になって1885(明治18)年に創立され、北村透谷、島崎藤村ら多くの著名人が教壇に立ったキリスト教主義の「明治女学校」(1909年閉校)のこと

「生きている神」と自称

『史談裁判 第4集』は2人の女性を「高原むめ」「鈴木げん」と表記しており以後それに統一する。東朝の記事は翌6月26日付も続き、吉三郎の生活ぶりをこう書いた。

 居間は奥まった八畳間の座敷で、室内の装飾は極めて美しく、(吉三郎は)身には常に白七子(表面が魚卵のように粒だった平織の絹織物)の衣服を着て、自ら「生きている神」と自称。家内の者はもちろん、出入りの者にまで「お上、お上」と敬わせ、朝夕の食事も通常のお膳を使わず、三宝(三方=神へのお供えを載せる台)を用いる。

 げんが菜飯の指図をして、それを白木の三宝に載せ、衣服を着替え手を洗い、白紙を口にくわえて三宝を目八分にささげ、あたかも神前に供えるように吉三郎の前に供えると、吉三郎はもったいぶって柏手を三度。その後食事にかかるのがいつものことだった。外出する時も決して歩かず、必ず車(人力車)に乗り、そうでなければ執事を供に連れ、言葉遣いも傲慢を極めていた。

 げんは吉三郎の「妻以上の妻」といわれ、2人の関係性についての記述もある。要約すれば――。(#2につづく)

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