異様な家庭環境だ。荻原さんが小学校低学年の頃までは、家族全員の食事の支度は母親がして、顔を合わせないようにそれぞれ時間をずらし、別々に食べていたという。だが、作った料理を祖母がゴミ箱に捨てていることに気づいてからは、母親は娘たちの分しか用意をしなくなり、父親や祖父母の分は祖母が作るようになった。
1階にしかキッチンや風呂はないため、食事のみならず入浴も、お互いがかち合わないように生活していたという。娘たちは家の中を自由に行き来し、父親や祖父母と話すこともあったが、母親と父親、母親と祖父母は全くと言っていいほど会話がなかった。ただ、月に1度、父親が母親に生活費を渡す瞬間だけ、両親は顔を合わせていたようだ。荻原さんは、物心ついた頃から結婚して実家を出るまでの間に、両親が激しく言い争いをして、父親が母親に馬乗りになっているところを2~3回目撃しているという。
「母はよく『マザコン』だとか『気持ち悪い』など、父の悪口を言っていました。おそらくそれを聞いた父がカッとなって喧嘩になったのだと思います。今思うと、母から父の悪口を聞かされて育ったため、私は男の人を下に見るようになったのかなと考えています。父から母の悪口を聞いたことはありませんでした」
両親と姉との家族4人で出かけた最後の記憶は、小学校2年生の時に遊園地に行き、「楽しかった」というものだった。
両親がいがみ合っていては、せっかくの遊園地も楽しめないはずだが、この時は違った。このことから想像するに、荻原さんの両親はおそらく、父方の祖父母と同居しなければ、家庭内別居などという異様な家庭に陥らずに済んだのではないだろうか。
父親は荻原さんが小学校中学年の頃、銀行を辞め、実家の農家を継いでいる。このことが父親と祖父母との結びつきを一層強め、母親との確執を深めていく。
「祖母が母をいじめており、さらに母だけでなく私や姉の悪口を書いたノートを見つけてしまったため、私は祖父母とは距離を置いていました。なので、祖父母との良い思い出はありません。父は学校への送り迎えをしてくれたりお小遣いをくれたりして、溺愛と言っていいほど可愛がってくれました」
荻原さんは、自分の家庭がおかしいとは思わずに育ったという。
「自分の家が他の家と違うことに気づいたのは、高校生になった頃くらいでしょうか。それまでは全く気にしていませんでした。姉とも、『お母さんって怒りっぽいね』とか、『お父さんって不機嫌になるとドア閉める音がうるさいよね』とか、話してもその程度だったと思います」