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――「プリンス」って急に言われてもっていう。

小林 『フードバトルクラブ』*でも、「底知れぬ貴公子」とかのニックネームをつけてもらって、番組側がそういうブランディングで売っていこうとしているんだなと思いました。僕はちょっと恥ずかしさがあったので、日焼けサロンで思いっきり真っ黒にして坊主にしていましたね。
*2001年から2002年までTBS系列で放送された早食い・大食い番組

 

――それは「プリンス」に抵抗して?

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小林 「プリンス」っていうイメージに乗っかっちゃうと自分でいられなくなる感じがして。それをうまくこなせる人がプロなんでしょうけど、僕には向いてないから、それだったら完全に期待を裏切っちゃったほうが楽かなと。

――少し前まで普通の大学生だったのに、急に「プリンス」と言われて、ファンが増えて。

小林 あのときは冷静さもなくてフワフワした感じで、なにが起きているかよくわかっていなかったと思うんですよ。ただ番組に出ながら、フードファイトがだんだん変わってきているのは感じて、これをスポーツにするのは面白そうだなと思い始めていました。自分にはフードファイトの未来をつくっていく、フードファイトを牽引していく役目があるんだろうなと。だったらもっとアスリートとして見てもらわないといけないし、「そもそもアスリートってなんだろう?」と自問していました。

 

2000年代のテレビの凄まじさ

――テレビをはじめとしたメディアは本当に無責任なところがあって、ワーッて持ち上げてはパッと離すみたいな、間をある種商品みたいに扱うところがあると思うのですが、小林さんがそこに(くみ)しなかったのは「フードファイトを競技として広めたい」という軸があったからなんですね。

小林 当時のテレビの力は特にすごかったですね。ただ、爆発力はあるんだけど持続力が怪しいと思っていて。大食いをスポーツとして成長させたくても、テレビだと、番組が終わればそこでなくなっちゃうじゃないですか。テレビの影響で大きくなっていったものだから、早いうちに番組の枠から出てスポーツイベントとして広げていかないと、流行って捨てられて終わるんだろうなという感覚がありましたね。それでもだいぶ飲み込まれた気がしますけど。ジャイアント白田のほうがもっと現実的だった気がする。

――『フードバトルクラブ』で小林さんとツートップだった白田信幸さん。白田さんは飲食業をやりたかったんですよね。

現在は大阪で串カツ屋を営む白田信幸さん ©三宅史郎/文藝春秋

小林 白田はフードファイトを始める前も始めた後でもそこがまったくブレてないんですよ。僕の場合は「よし、これをスポーツにしよう」って思ったのもテレビにだいぶ影響されている気もします。当時の僕には大学卒業後の進路目標だとか、これといった将来の夢もなかったですし。