――フードファイトは常識や社会規範との戦いの歴史でもあったんですね。
小林 アメリカで(大食いが)やりやすかったのはそれが1つの大きな理由だったと思います。日本と比べると、あまり食事のマナーについての文化が細かく決まっていないなと。
日本では、大食いを普通の食生活から切り離すのは難しかった。たとえば「子どもにああいう食べ方を真似してほしくない」という親御さんの気持ちもわかるので、難しいですよね。実際、僕も両親に「大食い=スポーツ」だと理解してもらうまではかなり時間がかかりました。父親と口を利かないような時期もあるくらいでしたし。
突然の番組終了と渡米
――2002年、番組を真似て起きたとされる中学生の死亡事故により、『フードバトルクラブ』は突然終わりを告げました。あの時、小林さんはどんなことを考えていましたか。
小林 そうですね……本当にやるせなかったです。まだフードファイトがスポーツとして認知されてないから、こういうアクシデントが起きたら一切なくなっちゃうんだろうなとも思いました。番組の人気が落ち気味だったら諦めもついたかもしれないけど、登り調子のままぷっつりと終わっちゃってたので、気持ちも不完全燃焼で。
そこは受け入れつつ、少し時間が経てばもう一度番組が復活するんじゃないかと期待していました。プロデューサーも、「1年ぐらいは復帰が難しいかもしれないけど、またやりたい」って言ってくれていたし、テレビ東京でも違う名前の大食い番組が始まったので、可能性は十分あるかなと思ってはいました。
ただその間なにもやらないのは、モチベーションを保てなかった。やっぱり大会がないとダメなんですよ。そこで、考えたのが渡米だったんです。年に一度開催されるアメリカのホットドッグ大会に出続けることを決めました。それに合わせてトレーニングすれば、体の調子も維持できて、スピリットも死なずに済むのではないかと。さらに、ホットドッグだけでなく、月一でアメリカのなんらかの大会に出るようになりました。
――番組がなくなったということは収入も断たれたわけですよね。お金はどうされていたんですか?
小林 日本のテレビで得た賞金がなくなるまでは、チャンスに賭けてみようと思っていました。大食いで稼いだお金がなくなるまでは。
撮影=三宅史郎/文藝春秋
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