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 天神通りから甲州街道を渡った向こうには、その名の通り天神さま。布多天神社というお社が、参詣客を待ち構えている。布多天神社の隣には電気通信大学だ。つまり、調布の町はただのベッドタウンなどではなく、天神さまの門前町、そして電通大の学生街という側面も持ち合わせているのである。

 

宿場町だった「調布」を揺さぶった中央線の開通

 調布は、甲州街道とともに発展してきた町だ。江戸時代、甲州街道におけるこの一帯の宿場は、国領・下布田・上布田・下石原・上石原の5宿をまとめて「布田五宿」と呼ばれていた。

 現在の京王線国領駅付近から飛田給駅付近にかけて、長~く宿場町が形成されていたというわけだ。調布駅近くの旧甲州街道は、上布田宿・下石原宿あたりに該当する。

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 ただ、布田五宿は江戸からそれほど離れていなかったこともあり、規模はそれほどでもなかったらしい。さらに、街道筋から少し離れれば不毛の地。武蔵野台地は水を容易に得ることができず、稲作には不向きだったのだ。まだ京王線が通っていなかった明治初期、いまの調布一帯には桑畑が広がっていた。

 さらに、明治半ばには現在の中央線が開通する。中央線は新宿から一直線に西を目指したので、甲州街道沿いからは離れたところを通った。そのため、調布の町も一時は廃れてしまったという。ようやく都市としての形が整うようになるのは、大正時代に入って甲州街道沿いに現在の京王線が通ってからのことだ。

 戦後になると、人口の急増も手伝って急速に郊外の住宅地として発展してゆく。戦争を挟んだ10年間で人口は倍増。1955年には深大寺門前町の神代町と合併し、調布市が誕生する。1975年には人口が10万人を突破、2000年には20万人を上回り、いまではすっかり東京を代表する住宅都市になった。

 それもこれも、甲州街道という町の原型があったところに京王線が通り、調布駅が開業したからだ。調布駅は、調布の町の発展の核といっていい。