実は、開業した当初の調布駅はいまよりもほんの少しだけ西にあった。ビックカメラが入っている駅ビルのB館、その北側に「調布銀座」という細い路地商店街がある。
いまの様相から見るにつけ、駅前の一等地とは言い難い。だが、かつてはこの調布銀座の正面に駅の出入口があったという。古き調布の名残の商店街なのである。
「調布」は“東の宝塚”だった
ところで、そんな調布を歩いていると、そこかしこで「映画のまち」なる文字を見かける。調布駅の駅名板も、映画のフィルムをイメージしたデザインになっていた。いったい、どういうことなのか。
現在の京王電鉄、かつての京王電軌は、1913年に調布駅を開業した。それから3年後、調布駅から多摩川の河川敷近くまでの支線を開業させている。現在の京王相模原線の原点である。
いまでこそ、京王相模原線は多摩ニュータウンに通じる通勤路線だ。だが、大正時代に開業した当時は、通勤路線というよりは多摩川の砂利を運ぶ産業路線、そして多摩川のほとりに築いたレジャー施設への輸送を担う行楽路線としての性質が強かった。
京王は、支線終点の多摩川原駅(現在の京王多摩川駅)前に大浴場や大食堂、遊園地などを集めたレジャー施設「京王閣」をオープンさせる。ちょうど関西では阪急の宝塚が私鉄沿線のレジャーランドとして名を馳せつつあったご時世。その向こうを張った京王閣は、言うなれば“東の宝塚”であった。
「調布」は“ただの住宅街”ではない
そして、昭和の初めには多摩川原駅の近くにもうひとつの施設がオープンする。京王が土地を提供して誘致した、日本映画の撮影所だ。
自然が豊かでロケーション場所にことかかず、フィルムの現像に必要な水に恵まれていたことで、撮影所の建設地になったという。日本映画はほどなく倒産し、撮影所は日活が承継。近くの京王閣では、日活の所属俳優によるショーも行われていた。
戦後は大映の撮影所になるが、日活は日活で新たに調布市内の多摩川沿いに撮影所を建設。日本映画の黄金時代と言われる昭和30年代には、大映と日活に加えてもうひとつ独立系の撮影所も生まれ、さながら“東洋のハリウッド”と言われるほどの映画町になった。これが、「映画のまち」の理由である。