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「高校生の身分」で銀座の高級クラブに営業活動

「彼は『暇にしていてもつまらないから』と言って、高校生なのにビジネスを始めていた。放課後に、スーツ姿に着替え、銀座の高級クラブを回り、『これからの時代、エアコンがなきゃダメですよ』と営業活動をしていたんです。どんな伝手があったのかは知りませんが、米国の大手電機メーカーの個人代理店になっていました。あの頃は銀座の有名店でも、エアコンが入っていない店が結構あって、そういう店に米国製のエアコンを売り込んでいた。『スゲーな』と驚くばかりで、我々とはレベルが違う奴だと思いました」

 正確に言えば、治則が個人でビジネスをしていた訳ではなく、大学生の兄、治之の仕事を手伝っていたに過ぎない。当時、治之は知人に頼まれ、米国の電機メーカー「キヤリア」の関東地区の販売担当を任されていた。米国製の高性能なエアコンは1台50万円の高値が付けられていたが、販売の利益は5割。1台売るごとに25万円が入ってくる計算だった。

 周囲に資産家が大勢いた治之は、割引価格で彼らに斡旋。機転を利かせ、町の電気店と組み、手数料を落とす代わりに、設置作業もセットで行なわせていた。それでも2割、3割の利益は確保できた。治之は大学2年の時点で、得意先だった銀座のクラブでは、すでに“顔”だった。

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 そこには、商魂逞しく戦後を生き、資産を築いた父、義治の影響が見て取れる。そして治則もまた屈辱的な退学で、慶応の輪から零れ、失意のなかにあっても、決して悲観ばかりしていた訳ではなかった。

 1964年春、慶応時代の友人たちは再び治則に驚かされることになる。

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