質素なスポーツの祭典だったオリンピックを巨額の利益を生み出すイベントに変えた電通にあって、長年、スポーツ局に君臨した高橋治之氏。そして、弟でかつて背任容疑で東京地検特捜部に逮捕された、イ・アイ・イーインターナショナル社長の高橋治則氏(享年59)。
天皇家にもつながるという名門で、お手伝いさんがいるような裕福な家庭で生まれたこの兄弟だが、かつて弟の治則は「高校退学」という挫折を味わっている。彼はなぜ慶応高校を退学しなければならなかったのか? ジャーナリストの西﨑伸彦氏の『バブル兄弟 “五輪を喰った兄”高橋治之と“長銀を潰した弟”高橋治則』より一部抜粋してお届けする。(全3回の1回目/続きを読む)
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生粋の慶応ボーイ
幼稚舎から慶応の高橋兄弟。治之は高校時代から高級外車を乗り回し、自宅で盛大なパーティーを開いていた。かたや治則は“ある事件”によって、退学処分を食らってしまう。
1961年に公開された映画「大学の若大将」は、若大将シリーズの記念すべき第一作である。主人公は慶応大出身の加山雄三。加山が演じる老舗すき焼き屋の長男が、水泳で五輪を目指し、時代を先取りしたアメリカ風のキャンパスライフを送る。その眩しい姿は、当時の若者の憧れの的だった。敗戦から復興を遂げた日本が、「岩戸景気」で勢い付き、世界に例を見ない高度経済成長期を迎えていく活力ある時代の理想像を表していた。
その前年の4月、高橋治之は慶応義塾高校に入学した。男子校の慶応義塾高校は通称、“塾高”と呼ばれ、ほぼ全員が推薦で慶応大学に進学できる。そのため、クラブ活動や趣味に伸び伸びとした3年間を過ごせる自由な校風で知られる。
幼稚舎から慶応普通部を経て、順当に塾高に進んだ治之は、その自由を謳歌するように4月に16歳になると、すぐに自動車免許を取得。時に父・義治の目を盗んで、イギリス車オースチンを運転し、日吉の地下壕周辺のスペースに車を停めていた。
塾高の同級生が振り返る。
「あの頃は、車で塾高に通う学生が結構いました。彼も時々親に無断でオースチンを持ち出し、父親から『俺が乗ろうと思っていたのに』と怒鳴りつけられたと話していました」
その後ろ姿を追うように、弟の治則も塾高に入ると「軽免許」を取得した。当時は、軽自動車用の免許が制度化されており、16歳から軽自動車の運転が可能な免許を軽免許と呼んだ。義治はのちに、大学生になった治之にはセドリックを、軽免許の治則にはスバル車を買い与えた。
白黒テレビと冷蔵庫、洗濯機が「三種の神器」と呼ばれた時代。高校生で高級外車を乗り回す治之は、加山が演じた映画の主人公さながらに時代の最先端を行く“慶応ボーイ”だった。
治之の幼稚舎時代の同級生には、昭和天皇の初孫として知られた東久邇信彦や世界的ピアニストとなった中村紘子らがいた。とくに旧皇族の竹田家の次男で、伊藤忠理事からブルガリア大使も務めた竹田恒治とは竹馬の友だった。竹田家は5人きょうだいで、恒治の3歳下の末弟が、のちにJOC会長になる竹田恒和だ。
前出の塾高時代の同級生が述懐する。