天皇家にもつながるという名門で、花嫁修業中のお手伝いさんがいるような裕福な家庭に生まれ、慶応幼稚舎から慶応大学に進み、電通、日本航空という当時の超一流企業にコネで就職。誰もがうらやむエリートコースを進んだ、東京オリンピック汚職事件のキーパーソン・高橋治之氏と、弟でイ・アイ・イーインターナショナル社長の高橋治則氏(享年59)。
かつて架空のパーティー券販売で慶応高校を退学になった弟・治則だが、その後は慶応大学の法学部に進学している。なぜ一度は首になった学校にまた戻ってくることができたのか? 彼の数奇な人生を、ジャーナリストの西﨑伸彦氏の『バブル兄弟 “五輪を喰った兄”高橋治之と“長銀を潰した弟”高橋治則』より一部抜粋してお届けする。(全3回の最終回/最初から読む)
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一般試験に合格して「慶応にカムバック」
塾高で同級生だった太田は、大学のキャンパスで久し振りに見かけた治則に、「どうしたの?」と話し掛けずにはいられなかった。治則は一般試験を受けて法学部に合格し、再び慶応に戻ってきたのだと説明した。
太田が述懐する。
「当時の法学部は学内でもそれほど上位の学部ではなかったのですが、それでも驚きました。高校をクビになった時、大学で慶応に戻すことが予め決まっていたのではないかと思ったほどでした」
実際に当時、慶応大関係者の間でも、義治と満洲人脈で繋がる後の環境庁長官の毛利松平の尽力があったのではないかと囁かれていた。毛利は慶応大の柔道部主将として鳴らした有力OBだった。だが、そんな憶測をよそに、入学式の治則は“噂の男”だった。
「お前、何やってんだよ」
本来なら居るはずもない治則の姿を見て、あちこちからそう声が掛かった。退学処分から慶応に返り咲いた伝説は、塾高の後輩だけではなく、同じ慶応大の付属高校である慶応志木でも語り草になっていたという。
「受験前は、24時間勉強した」
治則は後年になっても、当時を大袈裟にそう振り返ったが、その要領のよさと周りをアッと言わせ、煙に巻く演出は、彼の真骨頂でもあった。
軌道修正に成功した治則は何事もなかったかのように、再び慶応の友人らとつるむようになった。
「大学の面白い遊び人がいっぱい集まるから来いよ」
中江は、治則に誘われるままに慶大のアイスホッケー同好会「レンジャース」に顔を出した。
レンジャースは、治之が塾高のボクシング部で一緒だった同級生らと立ち上げた同好会だった。
レンジャースの関係者が語る。