高校から慶応に来た同級生は「外部の人」

「当時の“幼稚舎組”は結束が強く、高校から慶応に来た同級生を“外部”と呼んで一線を引くところがありました。彼らと仲良くすると、『お前、外部と付き合うのか』と露骨に嫌な顔をする者もいました。しかし、治之にはそういう垣根がなかった。逆に彼らの盾になり、温かく迎える度量の広さがありました。彼は外部から来た友人と一緒にボクシング部に入部していました」

 国体の神奈川県予選にも出場し、勝ち星をあげたが、試合後に頭痛を訴え、病院に運び込まれた。腕力が強く、パンチ力はあったものの、相手のパンチをブロックする基礎的な技術がなく、連打を浴びた結果だった。

 母親は、ボクシングに熱を上げる治之を「それ以上頭を殴られたらバカになる」と心配したが、翌年塾高に入学した治則もボクシング部に入部した。実は、ボクシングを始めたのは、治則の方が先。彼は兄にも内緒で、自宅から少し離れた街のジムに通っていたという。それは、奔放な兄への羨望とは違う、ライバル心の芽生えだったのかもしれない。

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 治則の幼稚舎時代のクラスメイトには、フジサンケイグループの祖である鹿内家の2代目、鹿内春雄や、のちに治則のゴルフビジネスにも関わるゴルフ評論家の戸張捷らがいた。

架空パーティーの嫌疑

 元衆院議員の太田誠一は、地元・福岡の中学校を卒業して塾高に入学。そこで治則と知り合っている。太田は、博多大丸の元会長を父に持ち、身内に政財界の有力者がいる家系に育ったが、当時はまだ政治家志望ではなかった。品川区小山にあった親族宅に身を寄せ、毎日、最寄り駅の洗足から目蒲線に乗って日吉にある高校まで通った。

 目蒲線は、現在の東急目黒線の旧称で、かつて“都会のローカル線”の風情を漂わせて走る濃紺と黄色のツートンカラーの車両で親しまれていた。当時の塾高は一学年に約700人の生徒がいたが、目蒲線を利用して通う同級生は、せいぜい3人。その1人が治則で、同じクラスになり、毎日通学で顔を合わせるうちに言葉を交わすようになった。

 太田が当時の記憶を辿って語る。

「高校から慶応に入った同級生には、のちに政治家になる中曾根弘文や小坂憲次がいましたが、決して目立つ存在ではなかった。塾高で目立つのは、やはり幼稚舎から普通部に進んできた連中です。慶応には普通部と中等部という2つの中学がありますが、幼稚舎出身者は伝統ある普通部に進む。彼らは自分たちが慶応の主流だという自負がある。その後、有名になった同学年の幼稚舎出身には、バラエティ番組を制作している『ハウフルス』の菅原正豊(「タモリ倶楽部」などを手掛けたテレビプロデューサー)がいました」

 治則も慶応幼稚舎から普通部に進んだ主流派だったが、太田にとって忘れられない出来事が、治則の印象を一変させた。学内の掲示板に張り出された治則の退学処分の告知である。塾高では、学生の不祥事について三段階の処分があり、問題の履歴が記録として残される譴責、次に停学、そして最も重いものが退学処分だった。

 治則は、ある事件の関係者の一人として処分を受けたのだ。

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