――ロシアのドキュメンタリーはその後?
今関 はい。『ロシアンララバイ』(注2)というので、ロシアではテレビ放送されたんですけど。ソビエト連邦が崩壊した直後のロシアに行った。まだモスクワ市内に銃弾や戦車の跡が残っているぐらいで。でも欧米の文化が入ってきていて、ピザハットができたり、変わってきている頃。それをロシア側が世界の監督に撮ってほしいというので、ドイツの(ヴェルナー・)ヘルツォーク監督とか、いろんな監督が入って、日本は大林さんだった。大林さんは一般家庭に住んで子守歌についてのドキュメンタリーを撮った。都会や田舎の家庭に1週間くらい住んで、おばあちゃんに昔の歌を歌ってもらったり。大林さんはやっぱり8ミリおじさんで、8ミリカメラでコマ撮りしてロシアを旅してました。
『カリーナの林檎~チェルノブイリの森』を製作
――その関連もあって、チェルノブイリの映画を撮ったんですか?
今関 そうそう。大林さんとロシアに行って、いつかこういうところで映画を撮りたいなと漠然と思って。それがずっと頭の隅にある中で、いろんな劇映画を撮って間が空いて、チェルノブイリのことがたまたま車のラジオから聞こえてきた。「チェルノブイリってどこだっけ」と調べたらウクライナで。もともとはソビエト連邦の一つだったので。だんだんのめり込んで調べ始めていった。
それで『カリーナの林檎~チェルノブイリの森~』という映画を撮った。チェルノブイリのドキュメンタリーは結構あるんです。日本人のドキュメンタリストも撮っている。でもドキュメンタリーではなくて、ドラマであのチェルノブイリのことを語る映画を作ってみようと。結構長く取材に行って、一回放射能で逃げた方とか、旦那さんを亡くした方とか、いろんな方を取材した。それから撮影をするので、大変でした。
――スタッフはどういう編成だったんですか?
今関 日本からのスタッフは5人ぐらい。通訳とコーディネーターと車両とか向こうのスタッフも入れてトータル10人弱。
空白期間を経て、追加撮影をして公開
――それを劇場公開する頃に今関さんは事件を起こして(注3)空白期間が始まった。
今関 そうです。完成して、関係者用の試写をした直後ぐらいですね。そこからどん底の世界に入って。
――それから服役して、ブランクがあって。刑期を終えてからもすぐには仕事が再開できなかった。

