同時期に上映活動を行っていた自主映画仲間からまずプロデビューしたのが今関監督だった。大林宣彦監督やアミューズのバックアップを経ていたが、23歳の自主映画作家が、映画の現場を知り尽くしたプロのスタッフを動かすのは大変だった。(全4回の3回目/4回目に続く)

今関あきよし監督 ©藍河兼一

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『アイコ十六歳』でプロデビューを狙う

――『アイコ十六歳』の企画はどうやって始まったんですか?

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『アイコ十六歳』ロビーカード

今関 「1980アイコ十六歳」というタイトルの本が本屋で山積みにされていたんですよ。「史上最年少の文藝賞作家 堀田あけみ」と書いてあって、読んだら小説というよりはエッセイに近い。やたら男の子に媚びる女の子がクラスメイトにいてイライラしつつ、自分は弓道という真面目なことをやっていて、というモヤモヤした日常を送っている女の子の話なんだけど。文藝賞を取ったし、史上最年少だから、絶対どこかで誰かが映画化するだろうなと思ったわけですよ。その時に、今でこそ僕ももうオッサンになったけど、変なオッサンがこれを映画化するのは嫌だなと思った。それで河出書房に僕は電話したんです。編集者の方に「映画化とか決まってるんですか?」と聞いたら、オファーはいくつか来ているけど、最終決定はしてないと。「僕も映画化したいので相談に乗ってもらえますか」と話したら、なんか聞く耳を持つ感じだったんです。でも僕はまだ22ぐらいだったので、文芸坐の支配人の鈴木一さんに一緒に来てもらった。で、取りあえず1カ月間僕に映画化権をキープさせてくれと。僕が映画化できる体制らしきものを作ってみたいので、できなければ諦めますので、1カ月待ってくれと言って、動いたんです。当時知っているのはぴあとか文芸坐ぐらいだから、ぴあで入選した時に推薦してくれた大林(宣彦)さんにぴあを通じてお願いしたんです。早急に小林(弘利)君とシナリオを書いて、こういう本でこの映画を作りたいといったら、大林さんが乗ってくれた。当時大林さんはアミューズとつながり始めていた。アミューズが映画に参入しようとしていた頃で、『狂い咲きサンダーロード』とかの石井聰亙組のプロデューサーである秋田光彦さんがアミューズに入ってきたんです。大林さんはアミューズの大里(洋吉)会長に連絡してくれて、僕を推薦してくれた。今は名も無き監督だけど、これから進んでいく監督を最初に後押しした人として功績が残るからやらないかと。それで、大里会長と会えることになって、僕の8ミリ映画を全部大里会長は観てくれたんです。つまらないのも。カーテンが揺れるだけの映画も。

『1980アイコ十六歳』(堀田あけみ著・河出書房新社刊)

――そうなんですか。

今関 「お前の映画、全部持ってこい」と言うわけです。リュックを背負って映写機を持って、大里会長のすごいマンションに行って。夜から朝にかけてずーっと映写して、観せた。特に感想もなく、もう眠かったから、一回帰って。そうしたら、夕方に電話が来て、「来い」と。行ったら、「やる」と言われた。「なんかよく分からないのもいっぱいあるけど、音楽の使い方がうまいから、それに賭けてみる」と。