昨年の元日、そして14年前の3月11日、午後2時46分どこで何をしていたか覚えていない日本人はいないであろうが30年前の1月17日を覚えている日本人は少なくなった。
テレビから流れてきた、悪夢を見てるとしか思えない映像
忘れもすまい、あの日は火曜日、30年前当時日曜日が締め切りだった週刊文春グラビア班では火曜日のカメラマンは休養日、ただ早朝5時46分直後、点けっぱなしのテレビから流れてきたニュース速報のただならぬ警報音の連続に一発で飛び起き、その後五月雨式にブラウン管に現れる、悪夢を見てるとしか思えん映像を横目に直ちに出動する。30年前のことである。情報が錯綜する中いまだ犠牲者数が一桁だったが、長田のあちこちから立ち上がる紅蓮の炎と黒煙やひっくりかえった阪神高速や元町のビル群の映像に、犠牲者数が倍々に増えるのだけは覚悟でき、背筋が凍りつく。
まだ携帯電話がそれほど普及していなかった時代、グラビア編集者の自宅に出動の打診の伺いをたてるも、「今週の入稿にまにあわないので、今から出ても無駄だから止めろ」という回答であった。制止を振り切り、いつも拙宅「つつみ荘」玄関に置いたままの「おはようセット」(標準機材と感材)を車に放り込み、即座に羽田に出発、羽田では同僚の大倉カメラマンと合流のうえ、JAL早朝便に飛び乗ったものの、なんと定刻で出発、約1時間後到着した伊丹空港ターミナルビルのあちこちにはすでに亀裂がはいり、それ以後、伊丹空港は閉鎖され、鉄路、陸路に続き、大阪への空路も途絶え、関東から神戸に向かうには途方に暮れるほどの時間と苦難を伴うこととなった。
火災現場にたどり着いた時は陽がとっぷり暮れていた
羽田で予約していた、空港レンタカー屋に残っていた最後の1台を借り上げ、すでに瓦礫の山と化して、混乱をきわめていた伊丹市の大渋滞を避け、裏六甲の山間部に、これまた崩落が始まった道路や通行止めとなったトンネルを避け、長田の火災現場にたどり着いた時はすでに陽がとっぷり暮れた午後6時を回っていた。
電気も上下水道も絶たれ、真っ暗なはずの現場はいたるところで地割れをおこし、破れたガス管から漏れ出たガスに引火し、割れた大地から青赤黄色の不気味な炎が噴き出し、立ち込めた異臭は人が近づくことを拒んでいるようであった。頼みの消防車も見えない、助けを求める声すらしない、ただボーボーと地獄の釜が沸き立つような音が周囲から聞こえるだけ。これまで数々の修羅場を経験し壮絶な現場を踏んできたカメラマンも思わず息をのんだ。
この日、午前5時46分に起きたM7.3の直下型地震により、私の育った町は瓦礫の下に埋まり、灰塵に帰した。