戦後の日米関係を考えるとき、少なくとも防衛・安保の面では、日本がアメリカに対して従属関係にあることは間違いないだろう。それが「同盟国」の実体であり、その象徴が沖縄を筆頭にした在日米軍基地だ。国土への重圧は、最近も起きている米兵の日本人女性暴行事件などを引き金に、住民の怒りとなって爆発する。
そのピークが1957(昭和32)年1月の「ジラード事件」だった。群馬県の演習場で21歳のアメリカ兵が、弾拾いに入り込んでいた46歳の農家の主婦を「ママサン、ダイジョウビ」とおびき寄せたうえ、後ろから撃ち殺した。国際問題に発展したこの事件は、どのような結末を迎えたのか。
当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の1回目/つづきを読む)
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「泣き寝入りしか仕方がない」
事件の約2週間前、1957年1月18日の群馬県の地元紙・上毛新聞朝刊に次の見出しの記事が載った。「桃井村米軍演習場で事故が続發(発) 砲彈(弾)の破片で卽(即)死」。
17日に同県北群馬郡桃井村の32歳の男性が兄らと薪拾いの作業中、「飛んできた砲弾が頭上で炸裂。破片が背中から心臓を突き抜け即死した」。記事はこう述べ、次のように続く。
被害者は演習場内でも特に危険な所に入っていた。演習のある日は絶対に立ち入り禁止になっている場所である。禁止区域の周囲には赤旗による表示があり、演習日には事前に各戸に連絡を行うなど、できるだけの措置をとっていながら、なお砲弾拾いの人たちがたくさんもぐりこんでいる。
この時は薪拾いだったが、普段いかに弾拾いが多いかがうかがえる。上毛は同日付夕刊社会面トップで「命をカケて“彈丸拾い”」の記事を掲載。「演習日には100人以上の人たちが立ち入り禁止区域の演習場で弾拾いをする」と実態を書いた。命を張って弾丸を拾う人たちは零細農、引揚者らで、警察がいくら警告しても効き目がなく、社会問題となっていたという。
そんな中で事件は起きる。ただ、1月31日付朝刊の第1報は上毛だけで、それも社会面4段という比較的おとなしい扱いだった。
第1報は「人妻が小銃弾に当たって即死」
人妻、小銃彈で即死 桃井地区 立入禁止区域で彈拾い
30日午後1時ごろ、群馬郡相馬村広馬場物見塚、桃井基地相馬ケ原演習場の立ち入り禁止区域で弾拾いをしていた同村柏木沢新田上、農業・坂井秋吉さんの妻なかさん(46)が小銃弾に当たって即死したと、同所の男性が高崎署へ届けた。同署は午後5時、現地へ行政検視に向かった。
この朝、なかさんは付近のおかみさんたち5~6人に誘われて弾拾いに行った。日ごろ、夫の秋吉さんに「村会議員をしている手前があるから……」ときつく止められていたのに、夫には内緒で時々出かけていたらしい。
記事は「狙い射ちならあきらめられぬ」の中見出しを挟んで夫の談話になる。

