「文藝春秋」1957年11月号所収の石岡實「相馬ケ原の渦中から ジラード事件一捜査官の覚書」は群馬県警の初動捜査を描いている。実際に書いたのは当時県警本部長だった石岡ではなく、刑事部長の岡田三千左右で、事件の追及は彼の情熱によるところが大きいとされる。
司法解剖で「流れ弾に当たったのではない」と発覚
同記事によると、発生は1月30日午後2時少し前で、米軍三ケ尻地区(現熊谷市)憲兵隊から県警捜査一課に連絡があったのは午後2時45分。「相馬ケ原演習場で女の変死体が発見された」という一報だった。自分(石岡)が事件を知ったのは翌1月31日午前。殺人に該当するかもしれないと指示していると同日午後、解剖結果が判明。夕方、岡田刑事部長らが現場を踏んだという。
山本英政『米兵犯罪と日米密約「ジラード事件」の隠された真実』(2015年)はこの事件の詳細な研究だが、解剖執刀医に半世紀余り後にインタビューしている。
それによれば、事件翌日の1月31日午前に行われた司法解剖では、「流れ弾に当たった」と聞いていたが、胸腔内に直径約1センチの筒状の金属が大動脈を突き破って留まっていた。引き抜くと、大人の小指大の真鍮製の薬莢だった。それが分かった時、立ち合いの警察官と米軍調査官は部屋を飛び出して行ったという。
『相馬ケ原の渦中から』は「2月1日までの3日間で事件解決の一応の地ならしはできた」と書く。それによれば2月2日、日本社会党の茜ケ久保重光代議士*が毎日、上毛両紙の記者を伴って石岡本部長を訪れ、徹底捜査を申し入れた。
*宮崎県出身で早稲田大卒業後、群馬県の鉱業所の所長などを経て日本社会党入りした政治家。事件当時は旧群馬1区選出で1期目。
茜ケ久保は事件を知った経緯について衆院内閣委員会で「坂井なかさんの親族から電話で知らされた」と語っている。隣の選挙区選出だったが、基地反対闘争で名をはせており、いち早く乗り出してきたようだ。
