1957(昭和32)年1月に起きた「ジラード事件」。群馬県の演習場で21歳のアメリカ兵ウィリアム・S・ジラードが、弾拾いに入り込んでいた46歳の農家の主婦・坂井なかさんを「ママサン、ダイジョウビ」とおびき寄せたうえ、後ろから撃ち殺した。国際問題に発展したこの事件は、いったいどのような結末を迎えたのか。

 当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する(全3回の3回目/はじめから読む)

ジラード事件に関する外交文書〔東京・港区麻布台の外交資料館にて1994年撮影〕 ©時事通信社

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裁判権の審理中に日本人女性と婚約

 5月27日付読売朝刊の総合面ベタ記事で「婚約者が釈放嘆願」という記事がある。「AP=東京」で「ジラードの婚約者の末山ハルさん(27)=埼玉県熊谷市在住、奄美大島出身=が26日、岸首相と中村法相に宛てて、ジラードを助けてくれるようにとの嘆願書を送った」という内容だ。

 ハルは6月9日付上毛朝刊でも、記者の取材に「彼は人を殺すような人では絶対ありません。本当に優しくて思いやりがある人なのに……」と涙ながらに語っている。「国際情勢通信」という出版物の1957年11月号に載っている「ジラード事件の内幕」はアメリカINS通信社東京支社の執筆だが、ジラードとハルの経歴などに詳しい。

ジラードの婚約者もメディアに登場(上毛)

 それによれば、ジラードは故人となった父とともにトレーラー付きの車で街から街へ、下水浄化タンクを販売する旅商人の息子として育った。十分に教育を受ける環境にはなく、学校は16歳で縁が切れた。18歳のとき、軍人として身を立てるつもりで陸軍に入ったが、間もなく日本駐留になった。

 のちに前橋地裁の裁判で弁護人となる林逸郎弁護士は「日本週報」1957年7月5日号での朝日、読売記者との対談の中で、ジラードの印象を「21歳というが、全くの子ども。凶悪な感じはなく、学問のない子どもといった印象。話してみると子どもだ」と語っている。

米軍キャンプにジラードを訪問するハル(「婦人倶楽部」より)

 ハルは6歳年上だが、演習地近くのバーに勤めていたことから知り合い、ジラードが愛情を抱くようになったと「ジラード事件の内幕」は述べる。2人はアメリカ連邦最高裁がジラードの裁判権を審理中の同年7月5日に結婚。そこには日本の世論を鎮静化させる狙いもあったと思われる。