12日付毎日朝刊はワシントン特派員電を1面トップでこう伝えた。裁定は憲法には触れず、政府の行為を合法と判断。同じ日付の読売は社会面で「日米両国間でもみ続けた『ジラード事件』もどうやら一つの大きな峠を越した」と表現した。13日の各紙社説はいずれも裁判権をめぐる争いの解決を喜び、公正な裁判に期待する論調。

 読売「編集手帳」は最高裁の判断を「良識のフェアプレー」と表現した。同日付毎日夕刊は「米国民の大多数が割り切れぬものを残している」と指摘したが、当のジラードは「予期していた」という感想を伝えた。

“世紀の公判”が開かれる

 前橋地裁での公判は「世界の注目集めて」(1957年7月22日付上毛朝刊)、取材の報道関係は40社近くに上った(8月23日付上毛朝刊)。旅館など宿泊施設は満員で、8月25日付毎日夕刊は「前橋にジラード・ブーム」と見出しを立てた。

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「前橋にジラード・ブーム」との見出し(毎日)

 そして開廷――。8月26日付上毛夕刊1面トップのリード冒頭を見よう。

 世界中の目と耳を集めたジラード公判は26日朝10時から開かれた。この日、朝から“国際都市”前橋の上空にはヘリコプターが数機飛び交い、県庁前、地裁周辺は走り回る報道関係のオートバイ、交通整理の白バイの爆音と、絶えず「お願い」と「連絡」をしゃべりまくる地裁のマイクで午前8時半ごろから9時半ごろまで、頭の痛くなるようなざわめきが続く。これが“世紀の公判”の興奮なのだろう。

 

 注目の人ジラード被告は9時きっかり、約5000人が織り成すこのざわめきに迎えられて、米軍専用車で地裁の門に滑り込んだ。待ち構えた報道陣のフラッシュの列を縫って、特別弁護人レビン少佐らに付き添われたジラードは1号法廷に消えて行った。

「地元は案外無関心」

 同じ日付の毎日によれば、傍聴券に並んだのは360人。ダフ屋も出て1枚1500~3000円(現在の約8700~1万7000円)でさばいたという。では、地元相馬ケ原の人々はどうだったか。8月26日付上毛朝刊は、その表情を「案外無関心な村民」として描いている。

「ジラード公判を迎え、ここ相馬ケ原演習場は米軍の引き揚げで弾拾いの姿もマバラになり、半年余り前のあの悲しい事件を忘れたかのように静かな毎日だ」。

「地元の表情は? ある一部の者だけが『赤線(立ち入り禁止)区域へ弾を拾いに行った者も悪い。撃った者はなお悪い。私たちは厳正な裁判を期待しています』と言っている程度で、ハタの大きな騒ぎにひきかえ、案外無関心のようだ」。

「案外無関心な村民」(上毛)

 8月初め、アメリカ国務省が第一騎兵師団の帰還を公表。相馬ケ原演習場返還の公算が大きくなっていた。実際には事件から1年半足らずの1958(昭和33)年6月、同演習場は返還され、自衛隊の演習場に。弾拾いは姿を消す。