1957(昭和32)年の1月に起きた「ジラード事件」。群馬県の演習場で21歳のアメリカ兵ウィリアム・S・ジラードが、弾拾いに入り込んでいた46歳の農家の主婦・坂井なかさんを「ママサン、ダイジョウビ」とおびき寄せたうえ、後ろから撃ち殺した。国際問題に発展したこの事件は、いったいどのような結末を迎えたのか。

 当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する(全3回の2回目/はじめから読む)

ジラード書類送検時の記事。空薬莢の写真が添えられている(上毛)

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弾拾いをしなければ生きていけない

 戦後の区域拡大の際に土地を強制接収された農家も多く、演習場は周辺住民に多大な影響を及ぼしていた。

 茜ケ久保重光議員ら日本社会党調査団の現地入りを報じたのと同じ2月6日付上毛朝刊1面には「彈拾いをしなければ“生きていけない” 貧しさが生んだ悲劇? 立入禁止強化は困る “不安”と“動揺”の相馬村民 現地にみる」という記事が見える。ここには基地と“共生”しなければならない住民の本音が表れている。

 全国から注視のマトとなったはずの現地、群馬県相馬村は、村当局をはじめ村民たちが、こんなに問題が大きくなるとは思っていなかった(一村民の話)という表情を見せていた。
 

 なかさんの位牌の前で夫・秋吉さん、目撃者の小野関英治さんの事情聴取が行われたが、警察、米軍、新聞と、質問や参考人調べで5日間を過ごしてきた2人はなんとなく口が重そうに見えた。同じ表情は近所の主婦たちにも見える。2人と秋吉さんの長男は次のように説明した。
 

「もし米軍から厳重に立ち入り禁止を通告されたら、村民の生活手段がなくなるのです。もう一つ不安なのは、ほとんどの村民が法律を破っているから、そんなことで調べられはしないかと思っています。でも『射殺されたんだ』という思いが皆にあり、あれやこれや、気持ちが複雑なので沈んでいるように見えるのです」

  記事は弾拾いの実態に入っていく。