薬莢は10倍の値段に「ライフル銃の訓練は大歓迎」

 この弾拾いは戦後、空き缶拾いから始まり弾丸に移ってきたが、(日本が独立した)1952(昭和27)年ごろは組合があり、1カ所に回収して分配した。だが、弾拾いは早い者勝ちで、抜け駆けした方が収入が多いので、1954(昭和29)年ごろ、組合も消滅してしまった。

 

 その後、「買い子」といって仕切り屋が高崎方面からトラックで来て買い集めるようになり、競争意識にさらに拍車がかかるようになった。そうしたことが今度の事故を招いたようだ。砲弾の破片で1貫(3.75キロ)当たり85~90円(現在の約470~520円)、薬莢だとその10倍の800~900円(約4700~5200円)になるので、事故の日のようにライフル銃の射撃訓練は大歓迎された。多い人は1日4貫目(15キロ)、3400~3500円(2万円前後)の収入とのこと。
 

 実弾射撃訓練があれば、村の人たちはまた「立ち入ります」とのこと。それほど農閑期の村民にとっては弾拾いが必要になっている。そうしなければ生きられないのだ。

射殺された女性は8人家族

 朝日も2月7日付朝刊で「『弾拾い』やめられぬ “生活の糧を失う”」という記事を掲載。坂井一家についても触れた。

 相馬ケ原演習場は榛名山の南側に広がる原野。ここで弾拾いを始めたのは大正9(1920)年、旧日本陸軍の演習場開設以来のこと。米軍接収後は、村民の副収入だった炭俵編みの材料であるカヤが実弾射撃でひどくやられたため、貧しい農家は副収入の道を弾拾いに求めた。

 

 射殺された坂井なかさん一家は8人家族。大正9年、旧日本陸軍に土地を強制買収され、1町5反の耕作地が5反に減った。最近では生活はもっぱら弾拾いに頼っていた。同家のある地区ではほとんど全戸が弾拾いに出る。相馬村と隣の北群馬郡桃井村を合わせた300~400人の住民にとって、完全な正業となっており、安い日雇い仕事をやる者がいない。

「生活のため『弾拾い』やめられぬ」(朝日)

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 2月10日付読売朝刊も「弾拾い」をまとめており、その中で弾拾いでの死傷者数について「宮城県王城寺原射撃場周辺では既に不発弾事故110件、死傷者136人に達している。全国では数百人を数える」とした。2月10日付上毛朝刊は、相馬ケ原で流れ弾や持ち帰った不発弾の事故での死傷者は29人。北富士、東富士、饗庭野(あいばの)各演習場を加えると150人以上に上ると書いている。