日暮吉延『東京裁判』(2008年)によれば、事件の前年1956年3月時点で136人。同書は、自分もA級戦犯だった岸信介首相が、ジラード事件で深まった日本人の反米感情を巧みに利用し、訪米直前の5月初め、戦犯の釈放をアメリカ側に働きかけた。その結果、戦犯は1958年12月までに全員釈放が実現したという。ジラード事件はここでも“利用”されていた。
「密約で名を得て実を失った」
事件から37年後の1994年11月21日付各紙に、公開された外交文書についての共同通信配信記事が載った。
「ジラード事件」の扱いをめぐり、米側が日本に裁判権を認める代わりに、日本は(1)殺人罪より軽い傷害致死罪で起訴する(2)裁判では可能な範囲で「判決が最大限軽減されるよう働きかける」との日米間の密約があったことが明らかとなった。
当時の岸内閣は、事件が日米関係に与える悪影響を懸念しており、批判を受けかねない密約を交わしてまで決着を図ったものとみられる。
この事実は当時から情報としてはあった。ジラードの兄が連邦地裁に人身保護請求を起こした後の1957年6月10日付上毛夕刊にはこんな記事が――。
【アトランタ9日ロイター=共同】ラッセル民主党上院議員は9日のテレビ放送で「米国と日本の間に、ジラードにあまり重い判決を下さないという、かなりハッキリした了解ができているに違いないと思う」と語った。
『米兵犯罪と日米密約』は、事件に関してアメリカ国務省を行き交った文書群を分析している。中で注目されるのは、ジラードの裁判権を日本に渡すことを公表した直後の5月20日、日本担当のロバートソン国務次官補から国務省宛ての覚書だ。「日本とは密約で、傷害致死より重い罪を問わないことで合意ができており、さらに日本の裁判所が重くない判決を与えるとの合意もできている」という内容だった。
5月25日のダレス国務長官とロバートソン国務次官補の電話でも密約のことが話し合われている。つまりこの段階で、裁判権を日本に渡す代わりに軽い罰で済ますという筋書きが日米間で出来上がっていたことになる。判決直後の11月22日付上毛夕刊のコラム「ローカル線」はこう書いている。
アメリカは「日本の裁判は公平」と喜んでいるらしいが、日本人であるわれわれは「判決は初めから分かっていたのではないか」と疑いたい。日本の裁判にかけるから罪は軽く、という黙約があったとしたら、日本人は名を得て実を失ったことになる。
こうして事件が日米間の重大な国際問題となる陰で、平凡な人生を送るはずだった農家の主婦の死は置き去りにされ、忘れられた。
「アサヒグラフ」1957年12月1日号に、ジラード事件判決直後、前橋地裁の中庭で撮影された写真が載っている。裁判長、検事、弁護人、アメリカ陸軍省法務代表ら軍人……。写真説明は「某人いわく『これこそ判決内容の姿だ』」。それから68年、状況は変わったのだろうか。
【参考文献】
▽山本英政『米兵犯罪と日米密約 「ジラード事件」の隠された真実』(明石書店、2015年)
▽『榛東村誌』(1988年)
▽『現代教養全集第1(戦後の社会)』(筑摩書房、1958年)
▽日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008年)
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