夫の言い分が控えめにすぎる気がするが、それには背景がある。朝日はベタ記事(1段見出し)で、記事の末尾に「立ち入り禁止区域に日本人が入れば、刑事特別法で懲役1年以下、罰金2000円以下の刑に処せられることになっている」と記した。

 毎日と読売には「狙い撃ちされたと断定せざるを得ない」との茜ケ久保代議士の談話が載っているほか、読売では同代議士は「日米行政協定に関する事案とし、国会の問題として責任の所在を明らかにしなければならない」と語っている。

米兵の犯罪のうち裁判が開かれたのはわずか2.8%

 日本の独立を目前にした1952(昭和27)年2月、前年の日米安保条約に基づき、在日米軍の基地や地位などに関する日米行政協定(現地位協定)が締結された。そこに規定された米兵の犯罪についての裁判権はアメリカの治外法権に近いものだったが、1953年に改定された。その運用について2月7日付上毛朝刊の「解説」(共同通信配信記事か)はこう書く。

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 行政協定第17条によれば、米兵が公務中起こした犯罪については米側に、公務外の場合には日本側に裁判権がある。しかし、公務中か公務外かの認定が問題で、米軍が一次的な決定権を持つことになっている。もちろん、米側の決定に日本側が異議を申し立てることは自由で、最終的には日米合同委員会に持ち込んで決定する。

 だが『米兵犯罪と日米密約』によれば、1953年9月から1956年11月に発生した米兵の犯罪1万4000件以上のうち、日本で裁判が開かれたのは391件。全体のわずか2.8%ほどで、「日本が97%もの裁判権を放棄しているのは尋常ではない」(同書)。つまり協定の“建前”とは別に、現実には治外法権とそれほど変わらないのが実態だった。

相馬ケ原で弾拾いをする人たち(『米兵犯罪と日米密約』より)

「スズメのようにパンと」

 3日付上毛夕刊「寸評」に次のような短文が載った。「弾拾いのおばさんがスズメ並みに撃ち殺された。餌をまいて呼び寄せてパンと一発」。被害者をスズメに例えた、その鮮烈なイメージが多くの日本人の潜在的な対米感情に怒りの火をつけたのかもしれない。

 約2週間前の桃井村の現場も今回も同じ相馬ケ原演習場だった。『榛東村誌』(1988年)によると、明治の終わりから陸軍の演習場となり、戦後は米軍が接収。6カ町村にまたがる2330ヘクタールに拡大した「キャンプ・ウエアー」として、さまざまな火器、戦車、ヘリコプターなどを使った実弾訓練を大々的に展開した。1952(昭和27)年の日本独立後も、安保条約と行政協定でそのまま在日米軍に提供されていた。(中編に続く

次の記事に続く 「日本の女を狙い撃ち」「生きている人間をマトに」群馬で起きた殺人事件が日米を揺るがせ…68年前に残されていた“怒りの声”

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