いま引用したいくつかのフレーズからもすぐわかるように、これはクールな死神の口調であると同時に、伊坂幸太郎という作家の稀有の才能を示す文体でもある。『死神の精度』は、伊坂の他のどの作品にも増して(おそらく死神のキャラクター設定のおかげだろうか)、見事な比喩や心に残る名科白が多く、引用してみたいところは数え切れないほどあるのだが、ほんのいくつか試しにあげてみよう。
「彼女の声は、濁った沼の表面で泡が破裂する音のような、じめじめとした小声なので……」
「足元で、地面が舌なめずりをするかのような音が鳴る」
「雨の雫に濡れながらも、その上にある暗い空を丸ごと背負っているかのような、落胆を滲ませている」
そして、短く言い切る警句風の表現がまた冴えている。たとえば、「床屋が髪の毛を救わないように、私は彼女(死すべき予定の女性─沼野註)を救わない。それだけのことだ」。
ねらいすました「精確」な短編集
おもに異化と文体という側面から、『死神の精度』の魅力について説明を試みてみた。いままで意図的に触れなかったのは、それぞれの短編の物語構成の巧みさである。それを解説するといわゆる「ネタバレ」になるので、具体的に書くことは控えるけれども、この作品集に収められた一編一編のプロットに、精妙な仕掛けがあって、読者は死すべき予定の人間の身辺を「調査」する死神とともに、彼らの人生にまつわる謎に踏み込んでいく。苦情処理の電話応対係に言い寄る不快なストーカーの正体は? 敵のアジトに乗り込んでいく任侠の男の運命は? ハンサムなのに、わざと「ダサい」メガネをかけている青年の「片思い」の結末は? 母を刺したうえ、路上で見知らぬ男を刺し殺した凶悪犯が秘めていた幼時のトラウマとは? そして、美容院を一人で営む老女が、死期を悟って最後に死神に持ちかけた奇妙な依頼の意味は? そのすべては、本書を読んでのお楽しみ。いずれも簡潔で精緻に構成された短編ながら、謎解きの醍醐味も味わえる仕上がりになっていることは保証できる。
最後にこの本の構成について、一言だけ触れておこう。『死神の精度』は、基本的には短編集と読んでよい作品で、一つ一つの作品を独立したものとしても味わえるけれども、いかにも伊坂幸太郎らしい連関の網が張られていて、全体の構成もよく考えられている。他の作品にかつて登場した人物がちらりとこちらに出てくるというのもおなじみの手法だが(第五話「旅路を死神」に登場する、塀に落書きする青年は『重力ピエロ』の春という人物のようだ)、『死神の精度』の内部に限ってみても、一度出てきた人物が後でじつに意外な形で登場することがわかる。
そして最後まで読み通してみると、この作品集では第一話から第六話までの間にはるかな歳月が流れていることになるのだが、不思議とそういった時間の飛躍を感じさせず、全編が同時代的なリアルな雰囲気のうちに進行する。おそらく、死神が卑俗な時間を超越した存在だからなのだろうか。なにしろ、彼は「人が生きているうちの大半は、人生じゃなくて、ただの時間、だ」という言葉を、「二千年ほど前」仕事で会った思想家から聞いたこととしてこともなげに引用するくらいなのだ。この思想家とは、『人生の短さについて』を書いた古代ローマのセネカだが、人生の短さについての伊坂幸太郎の寓話集の語り手が、時間を超越した死神だという設定もにくい。文体もプロットも構成も設定も、ねらいすました「精確」な作品集だと思った。