伊坂幸太郎さんの初期代表作『死神の精度』の新装版が、2月5日に発売になりました。発売を記念して、2008年に刊行された文庫版に寄せられた、ロシア東欧文学者・沼野充義さんによる解説を公開します。

『死神の精度』新装版は2025年2月5日発売 ©文藝春秋

 ふだん推理小説をあまり読まない私が──決して嫌いなわけではないのだが、職業柄、「純文学」と呼ばれるジャンルのものをたくさん読まなければならないので、なかなか手が回らないのだ──伊坂幸太郎という際立った才能を「発見」したのは、たまたま『魔王』(講談社、2005年)を読んだときのことだった。彼はその時点ですでに『オーデュボンの祈り』『ラッシュライフ』『重力ピエロ』といった長編をつぎつぎに発表し、楽しい奇想と簡潔で小気味のいい文体のセンスで際立った、新感覚の作家として注目を集め、熱烈なファンも多かったのだから、いささか間の抜けた遅ればせながらの発見だったには違いない。

『魔王』を読んで直感的に思ったのは、この若い未知の才能には、ミステリーやエンターテインメントといったジャンルを超えて大きく展開する可能性が秘められているということだった。『魔王』は表題作と、その続編「呼吸」の二つの作品をあわせて一冊としたものだが、この本が扱っている「現実」は、ファシズム的な雰囲気が日常に瀰漫(びまん)し、憲法の変更まで国民投票で決められようとしている現代日本の政治状況である。とはいっても、物語はけっして退屈な政治的議論で滞ることなく、ささやかな「超能力」に恵まれた二人の兄弟による、ファシズムの「洪水に打ち勝つ一本の木」となるための戦いが作者持ち前のきびきびした文体でスリリングに描かれており、政治的批評と物語性がみごとに溶け合っている。ミステリー畑から出てきたのに、純文学的な才能が感じられる──などと言いたいわけではない。むしろ『魔王』で私が感嘆したのは、しなやかな物語のセンスと、硬派と呼んでもいいような(決して政治的というわけではないが)すがすがしい倫理観や知性が見事に溶け合っているということで、これは最近の純文学にはむしろ欠けているものなのだ。

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 伊坂幸太郎以外にも、このようにエンターテインメントと純文学の境界を超えて伸びやかに才能を発揮する若手作家たちが最近台頭してきていて、巷では「春樹チルドレン」と呼ばれることもある。確かに村上春樹が切り拓いた新しい小説世界は、従来のジャンルの境界を超え、卓抜な比喩を駆使したしなやかな文体感覚によって新しい時代を画し、その後の世代に大きな影響を与えた。だから村上春樹より若い作家たちは、多かれ少なかれ、彼が切り拓いた土壌を前提として出発しなければならなかった、といえるだろう。これは何か選択できるものというよりは、避け難い所与のものだ。しかし、伊坂幸太郎には、紛れもない彼自身の個性の刻印があり、他の作家との類似をうんぬんすることはこの若き目覚しい才能に対して、失礼なことではないかとさえ私には思える。