「さすがに3階なんでね。年齢的にもしんどくなってきたかな。でもだいぶものも言うようになったよ。かつては返事もしなかったけど、最近はよく話もするし、無罪になったことは、本人はもう分かっているんだよ。
ただ、拘禁反応で『殺し屋が出てくるので俺は町にでる』『俺はローマに行くだ』そんなふうに言うことはなくなったけど、昨日はこがね味噌に行くと言い出しただよ。4人は死んでいない。生きていると言うんだ。この前は家のネコを『暖流』(袴田さんがかつて営んでいたバー)に連れていくと言い出した。記憶が錯綜しとるだね」(秀子さん)
袴田さんの元ボクサーとしてのアイデンティティーは今も堅固にある。11月29日に日本プロボクシング協会に招待されて病院から後楽園ホールに向かうときは、名前だけ記せば良い外出届にわざわざ「後楽園へ帰る」と書いて出て来た。
しかし、いざホールについて廊下を歩いていると、急に家に帰ると言い出した。結局、袴田さんは、怒り出してリングには秀子さんだけが上がって挨拶をした。「あそこのコンクリートの打ちっぱなしが刑務所と一緒に見えたんだろうね」と、秀子さんは語る。
袴田さん支援クラブの人によれば、刑務所から出て10年たった今も、こうした症状はずっと変わっていないようだ。食事についても以前は1年半、毎日ウナギばかり食べていた。いまはうどんとパン。それも妄想のなせる業、やはり拘禁反応はそれだけ重篤なのだという。
「冤罪で拘束された47年7ヵ月の間の賠償」より大切なこと
袴田弁護団は、袴田さんが47年7ヵ月もの長きにわたって不当に身柄を拘束されたとして、国に2億1735万円の刑事補償を請求する方針を出している。認められれば過去最高額になる、国家賠償の問題だ。坂本は、秀子さんに今後の活動を訊ねた。
「再審法改正や冤罪の究明支援はやっていこうと思ってるよ。講演の依頼も頂くんだけど、これは日本全国にお礼や報告を言いに行きたいから、受けようと考えとるよ。
私は忙しい方が性にあってるでね。58年も支援活動をやってもくたびれたとも言わんよ。死ぬまでがんばるでね。
でも、国家賠償については弁護士さんにまかせっきり。私はお金に関心ないし、大したお金もいらないだよ。重要なのは巌が無罪だったということ」
秀子さんは最後にあははとまた笑った。坂本は彼女に向かってあらためて握手を求めた。そしておめでとうではなく、「刑務官たちのためにもありがとうございます」と言って頭を下げた。



