だが今回の『GQuuuuuuX』はその安彦良和の監督・監修の力を借りずに再現に挑戦している。前半部分の「再現度の強さと熱量」は、オリジンに愛と尊敬を捧げるオマージュであると同時に、老いてなお達人の高みにいる安彦良和の筆力に対する下の世代のアニメーターたちの技量的挑戦でもあり、同時に安彦良和の絵を人間の手で描き継いでいくのだという継承への意志表明にも思える。メガヒットの情報をききつけた大手資本が次々とアニメ制作に参入し、激しさを増すばかりのアニメーター争奪戦の中でこれほどの技量を持つアニメーターたちが集結したことは、それだけ『ガンダム』という作品の持つ価値を証明してもいる。

前半と後半の違いが表す「ガンダム」の歴史

 しかしそうした前半部分は、庵野秀明がコメントで書くようにあくまで本編の前日譚にすぎない。映画の半ばから始まる後半部分こそがメインだと宣言するように、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』というタイトルは前半と後半をつなぐ映画のど真ん中で初めてスクリーンに映し出される。

 前述したように、前半と後半は2本の映画を併映したようにカラーが違う。忠実に安彦良和の絵を再現した前半から打って変わったように、後半は鶴巻監督の代表作『フリクリ』を思わせるポップなキャラクターデザインの少年少女、マチュ、ニャアン、シュウジの3人を中心に物語が進んでいく。

ADVERTISEMENT

 作品ごとの絵柄の違いはともかく、一本のアニメーション映画の中でこれほどキャラクターの絵柄が変わることは世界的にも珍しいのではないだろうか。だが、ディズニーアニメのように統一されたブランドを維持する方向性とは違い、この絵柄の多様性を「映像の文体」として受け止め消化するのが日本アニメの作り手と観客の強みでもある。絵柄の違いはいわば、キャラクターを撮影するカメラの違い、物語を記述する文体が切り替わったと観客に解釈されるのだ。

 前半と後半の絵柄の違いは、そのまま機動戦士ガンダムというシリーズの歴史を象徴しているようにも感じる。富野由悠季が監督をつとめ、安彦良和がキャラクターをデザインした最初のガンダムから、やがて監督もキャラクターデザインも次の世代のスタッフがつとめる形でシリーズは現在まで引き継がれてきたからだ。機動戦士ガンダムシリーズの長い歴史の半分以上は、富野由悠季以外の監督によって作られた『ガンダム』で支えられている。

 富野由悠季が作り上げた初期ガンダムシリーズの作品としての質の高さは言うまでもない。アムロ、シャア、ララァといった鮮やかな人物造形のキャラクターたちが残した物語は日本のロボットアニメにとってのシェイクスピア、繰り返し引用される古典と言っても過言ではないだろう。だがそれ以上に富野由悠季が偉大なのは、彼の発明した『機動戦士ガンダム』というシステム、物語フォーマットを利用すれば、彼以外の若い監督たちが別のキャラクターを使って『ガンダム』を作ることができる、そうした作品システムを発見し、発明したことではないかと思うのだ。

 2022年から2023年にかけて放送され、高い評価を受けた『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の中で忘れられないシーンがある。第20話『望みの果て』で、宇宙に移住した「スペーシアン」への憎悪にかられて破壊に走る「アーシアン(地球人)」ノレア・デュノクを、同じくモビルスーツに乗った強化人士5号が制止するシーンだ。憎しみを剥き出し「お前に何が」と言いかけたノレアに対し「僕と来い。生き方がわからないなら一緒に探してやる」「生きていいんだって。証明させろよ」と5号はモビルスーツ越しに訴えかける。心が揺れ動き、「あとで教えて、あなたの本当の名前」と言いかけた瞬間、モビルスーツのコックピットを狙撃され、ノレアは死ぬ。

『機動戦士ガンダム 水星の魔女』公式Xより

『水星の魔女』は、富野由悠季と安彦良和が作ったガンダムとは絵柄もキャラクターも、テーマもストーリーも違う作品だ。しかし、そこで描かれる「モビルスーツ越しにキャラクター同士がお互いの心をぶつけ合う」「戦いながら対話し、議論する」という作劇の手法は、『逆襲のシャア』のクライマックスで交わされるアムロとシャアの激論から最新の作品に至るまで『機動戦士ガンダム』というシリーズの中で何度も繰り返されてきた。それはキャラクターやストーリー、監督のメッセージが変わっても機能する、作品の中核を支える物語システムである。富野由悠季はいわば「モビルスーツに議論を乗せる」という作劇のシステムをテレビアニメの中で発明したのだ。

 それはもしかしたら、激しい議論が行われる学生運動の時代に育ち、やがてそれが失われていく時代に演出家になった富野由悠季が宇宙空間にフィクションとして作り直した「議論の土台」なのかもしれない。そしてその虚構の上に築かれた議論のシステムには、21世紀の今『水星の魔女』のような新しい世代の作品が、孤独とアイデンティティに悩む言葉を乗せることが可能なのである。