――バレーが辛い時期があった。
大山 私の高校時代は、自分で考えるバレーをやっていました。練習メニューも自分たちで考え、作戦も選手同士で知恵を出し合いながら決め、監督は私たちが間違っていたら軌道修正してくれるというスタイル。高3の時はインターハイ、国体、春高バレーの3冠も獲りました。
でも、社会人になり日本代表入りすると環境が180度変わったんです。ミスしたら怒られるのでミスをしないようにしなきゃとか、チームに迷惑を掛けないようにしなきゃとか、メンバーから外されないようにしなきゃとか、怒られるのが怖くて委縮してしまい、それでまたミスをする。悪循環でした。
26歳で引退を決断した背景は…
――右肩の故障に加え、脊柱管狭窄症(背骨の中にある神経の通り道が狭くなり神経が圧迫される病気)を発症。かなり苦しい時期だったと思います。
大山 「死んだ方がましだ」と思うほどの痛みでした。意を決して手術をしても、以前のような感覚が戻らなくて。でも一番辛かったのは体の不調より、大好きだったバレーが嫌いになってしまう自分を許せなかった。
高校時代までは上手くなりたい、強くなりたいという一心で楽しくバレーをしていたのに、社会人になったら自分もバレーも嫌いになってしまっていたんです。注目していただいているのに、結果が出せないという焦りや自己嫌悪で頭がいっぱいになって……。あの頃は本当に、辛かったですね。
――そして26歳で引退を決断。
大山 ケガが引退の大きなきっかけではありましたけど、メンタルの影響も大きかった。違う思考で取り組んでいたらもっと楽しくバレーが出来ていたし、あと10年はコートに立てていたかもしれない。そう考えると、もったいなかったな、って。
でも、今考えるともっと上手く順応できたはずなんです。それに現役選手の発信は凄く影響があるのに、あの頃はとにかく目立たないように、目立たないように身を縮めていた気がします。
今、SNSやメディアで発信しているのはその後悔から。後輩たちには楽しむことを忘れずに競技に取り組んで欲しいんですよね。
――大山さんの言葉には、アスリート以外の方も励まされているように思います。なかでも、5年間に及ぶ不妊治療をされていたというお話は反響もあったのでは?
大山 そうですね。同じように悩んでいる方がこれほど多いのだなと感じました。私も不妊治療は本当に、葛藤の連続でした。
撮影=末永裕樹/文藝春秋
その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。

