映像を出すことに“痛み”はあるが“なかったこと”にはしない

――映画の反響がすごく広がっています。監督自身の中で改めて高まっている想いはありますか?

藤野 やはりこういう映像を出すことには痛みがあります。今でも出してよかったのかなっていう気持ちもあります。でもやはり、こうするしかないという判断をしました。今もどこかで同じようなことが繰り返されている気がしてならないからです。親が病気の子どもを閉じ込めていたとか、医療に繋がらないという問題はまだまだ起きています。うちの両親のように黙って“なかったこと”にしてしまったら、また同じことが繰り返されてしまうかもしれませんから。

©2024動画工房ぞうしま

――反響が大きいだけにたくさんの取材も受けていらっしゃると思います。その中で、これを聞いてほしかったとか、これを話しておきたいということはありませんか?

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藤野 先ほども少し話しましたけど、こういう映像を出すこと自体、問題があるという考え方もあります。厳密な意味で(当事者の)承諾がないんですよ。父からは映像の中で一応承諾は取っていますが、96歳の父が客観的に判断できたかどうかという問題はあります。姉と母からは(すでに亡くなっていたので)取っていません。だから承諾はないんで、そこは問題だって言う方もおられます。もちろん映像を出すことに承諾はあった方がいい。けれども承諾がなければ作ってはいけないのかというと、そこは微妙なところで、僕はこれ、作り手側の責任だと思うんです。

――作り手として責任を負う覚悟で映像を出すということですね。

藤野 撮られる人の人権という観点では、承諾のない映像は“なかったこと”にした方がいい。でもそれでは事実を隠したい人に有利になる。承諾のない映像の使用による問題以上に大事なことがあると思ったから出したんです。映像を通して問題を知ってもらうことで、同じようなことを少しでも防ぎたいし、状況を少しでもいい方向に変えたい。そうしないと、姉が失った25年は一体何だったのかと感じてしまうんです。

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 藤野監督の話を聴きながら、私は事実を伝えることへのただならぬ“覚悟”を感じた。承諾がないから出せない、ではなく、承諾がなくても出すだけの意味があるのか、そして映像公開で当事者が受ける被害との兼ね合いをどう考えるのか? 藤野監督の“覚悟”は、すべての表現者に“問い”を突き付けている。

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