キャンペーンガールへの挑戦
モデルを始めた当初は「女優になりたい」などといった明確な目標もなく、雑誌やVシネマ出演などの仕事を受けるがままにこなしていたが、『11PM』に出演したあたりから「何者かになりたい」との思いが募り、キャンペーンガールやレースクイーンのオーディションを積極的に受けるようになる。ちょうどバブル全盛期で、大企業は宣伝広告のため大々的にキャンペーンガールのコンテストを開いており、受賞者が女優やタレントなどになるケースも多かった。
このとき、飯島はカネボウの水着キャンペーンガールグランプリに狙いを定める。当時、芸能事務所や一般からも含め応募者が何千人も集まる狭き門で、飯島が挑んだときには5次審査まであったという。そこで合格するにはなまなかではいかない。前出の著書『今のための今まで』では《オーディションに向けて、企業の理念や商品に込められたメッセージを徹底的に調べ、メッセンジャーにふさわしいキャンペーンガール像を自分なりに考え抜きました。清潔感、フレッシュさ、パワー、華やかさ、そして、私だけが持つオリジナリティを磨こうと、だれも見たことのない、飯島直子というキャラクターを作り上げるのが目標でした》と明かし、とにかく必死であったとわかる。
1年目は最終審査で落ちたものの(鈴木京香が選ばれた)、2年目の1989年に再挑戦して念願を果たす。翌年にはカネボウの仕事を始めるとともに、キリンビールの初代キャンペーンガールにも選ばれた。
写真集でもテレビでも“水着”
スタイルのよさから写真集できわどいポーズを披露する一方、テレビでもバラエティ番組で水着になることが多かった。1991年に間寛平主演の『ファンキー・モンキー・ティーチャー』でマドンナ役として映画に初出演して以降、女優の仕事も増えていくが、当初はセクシーな役どころがほとんどで、世間的には派手なイメージがつきまとうことになる。だが、それも20代後半に一変する。きっかけは、1994年から出演を始めた缶コーヒー「ジョージア」(日本コカ・コーラ)のCMだった。